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日韓万華鏡

思い出の食べ物

子供の頃から学生時代にかけて味わった私個人の思い出の食べ物です。昭和っぽくないものも混じっているかもしれませんが、その辺はご愛嬌ってぇことで…。

「アンデルセン物語」のデンマーク料理
京浜急行線金沢八景駅前、国道16号線の道路反対側に1階にケンタッキーフライドチキンがテナントで入ったマンションが建っている。その昔、そこにはマンションではなく、真鶴会館という大衆食堂とバンケットルームを備えたレストランビルが建っていた。このバンケットルームは大学のコンパや近隣の学校のPTAの会合などにもよく使われており、2階の食堂はデパートのお好み食堂のような作りで和食、洋食、中華のメニューが揃っていて、大衆食堂入口で食券を買ってオーダーするようになっていた。
このレストランビルの1階の片隅にテーブル席1つとカウンターだけの小さなデンマーク料理喫茶「アンデルセン物語」があった。
ここのマスターはバラエティー「お笑いマンガ道場」で川島なお美との共演で知られたタレント・車だん吉にちょっと似た風貌でデンマークで修行してきた人だった。
マスターの作る手作りデンマーク料理が絶品で、なおかつ安く、横浜市立大学と関東学院大学という2つの大学を抱える学生街・金沢八景では学生に人気の店で、大学生や高校生がいつもたむろしていた。
そして、いつも店のカウンターに落書き帳が置いてあり、店を訪れる学生たちがまるでネットの掲示板のように思い思いに詩を書いたり、漫画を書いたり、筆談をしたりして楽しんでおり、それがきっかけでマスターとお客、お客とお客が話に花を咲かせたりもしていた。
マスターがひとりでやっている店だったが、実にアットホームで、揃いのTシャツを作ったり、ボーリング大会をしたり、学生サークルっぽい雰囲気に溢れていた。
かくゆう、この私も常連の一人だった。
そこの名物メニューがマッシュルームのたっぷり入ったグレビーソースがかかったフリカデエラ(デンマーク風ハンバーグステーキ・写真左)とローストビーフやサラダ、ニシンの酢漬けなど様々な材料が具に使われるデンマーク式オープンサンド(写真右)だった。デンマーク式オープンサンドは本来はスライスしたライ麦パンの上に具を乗せるものらしいが、マスターが食べやすいようにと配慮し、パンはフランスパンのスライスを使っていて、フランスパンが切れると食パンを使うこともあった。
私が大学を卒業する頃、マスターは川崎の大きな病院の食堂にマネージャーとして引き抜かれ、伝説の楽しい喫茶店「アンデルセン物語」は閉店、跡地にはケンタッキーフライドチキンがテナントとして入った。その後マスターとは音信不通だが、今でもふとフリカデエラとデンマーク式オープンサンドが食べたくなることがある。
個人的な思い出を随分語ってしまったが、1970年代から80年代にかけての時代、学生街にはランチが美味しくて、個性的なマスターのいる洒落た喫茶店が大抵はあったものである。
キング・オスカーのオイルサーディンとオードブル
ノルウェー産のいわしの油漬け缶詰「キングオスカー」。はごろも缶詰から発売されているが、歴史のある缶詰である。1902年にノルウェーとスウェーデンの統一王であるキングオスカーⅡ世より、特別な許可を与えられて出来たブランドなのだとか。我が家では私が幼稚園児だった頃からキャビア(本物のチョウザメの卵ではなく、パチモンのランプフィッシュの卵)とセットで食卓に並んでいた。その当時はサンドイッチ用の食パンを四つ切りにして天ぷら油で揚げたものにバターを塗り、レモンの輪切りを載せてその上にオイルサーディンを載せていたが、その後、揚げた食パンではしつこいということで、代わりにリッツクラッカーが使われるようになった。
そのオイルサーディンのオードブルが子供の頃から好きで大人になってもときどき作るのだ。ただ、レモンの輪切りそのままだと皮が硬くて美味しくないと家族から苦情が出たので、最近はレモンの皮をむいていから輪切りにするようにしている。写真の例はオイルサーディンがちょっと足りなかったので、冷蔵庫にあったローストビーフを載せたもの。
うな重
うなぎは私の好物である。みりんの味を利かせて、うなぎのエキスから出る出汁とほんのりとした甘味のあるたれが特に好きである。
これが思い出の食べ物か?…という向きもあるかもしれない。
うなぎは卵からの完全養殖はできず、シラスウナギという稚魚を入手して育てなくてはならないが、そのシラスウナギが激減している。
そのため国際取引がワシントン条約によって規制される可能性が出てきている。天然うなぎが売り物だった野田岩はとうに手が届かない高嶺の花となり、昭和の頃はうな丼の安売りで知られた虎ノ門の鐵五郎は閉店。築地場外市場の片隅の格安うな丼屋も魚市場が築地から豊洲に移転したらどうなるかわからない。
毎年夏になると出てくる牛丼屋のうなぎだっていつまで食べられるか…。そういう状況なのでうな重を敢えて思い出の食べ物に加えさせていただいた。
焼きそばパン
中学校では朝、パンの予約を受け付け、昼間予約したパンを受け取るようになっていた。その予約販売のパンの定番の一つがこれ、「焼きそばパン」である。ただ、中央に切り込みの入ったコッペパンにソース焼きそばを挟んであるだけ。炭水化物過多といえば過多である。カップ麺のソース焼きそばをコッペパンかバターロールに挟んでも作れそうな感じもする。実は1950年代の東京・南千住の「野沢屋」という店が発祥で焼きそばとコッペパンを別々に売っていたのをお客が「面倒だから、挟んで!」といったのがきっかけで出来たのだとか。どうりで戦前派のお年寄りの口から「焼きそばパンが懐かしい!」なんてセリフが出ないはずである。
この発祥の地「野沢屋」は残念ながら既に廃業していて、オリジナルは食べられないのだとか。
揚げパン
小学校の時には揚げパンが苦手だった。何しろ揚げ油が使い古しのコールタールのように真っ黒になった代物で酸化して油臭い。そして、かかっているのがザラメ1種類で触ると手がベタベタし、一口食べると胸焼けするようなものだった。なので、小学生のとき、給食で揚げパンが出るとそそくさと給食袋にしまい、家で捨てていた。
東京・御徒町の給食料理専門店国際捕鯨委員会(IWC)で約40年ぶりぐらいに揚げパンにお目にかかった。上にかかっているヤツは昔はザラメだけだったのが、さとう・きなこ・ココア・シナモン・カフェラテとフレーバーが選べるようになっていた。私はその中からココアを選んでみた。
揚げ油が古くないので、味はチュロスに近い。香ばしいし、上のココアパウダーがまたいい味を出している。小学生のときにこれが出ていたら、残さずに食べられたのに…。
鯨の竜田揚げ
学校の給食で一番旨いと思ったのが、鯨の竜田揚げ。気に入ったので、家でも食べさせろと両親に言ったら、ひどく嫌がられ、それでもしつこくおねだりしたら、翌日鯨の生姜焼きを私の分一人前、嫌々ながらきっちり作ってくれた。戦時中は牛肉の代用品にされ、ビーフステーキの代わりを鯨のステーキが果たしていたため、戦時中を思い出して不愉快になったようだ。その後鯨の竜田揚げは、国際捕鯨委員会(IWC)の決議により1985年に姿を消した。鯨肉は調査捕鯨により僅かに手に入るのみという状況なので、スーパーでもまずお目にかかれないし、あってもとんでもなく高価だ。
昔を思い出して食べたいな…と思って探したら、鯨の鯨の竜田揚げが食べられるレストランが関東地方では御徒町にただ1軒だけあることが分かり40年ぶりに食べてみることにした。
お味は牛肉とマグロを足して2で割ったような感じ。しかも揚げたてだからかとてもジューシーだった。
尚、鯨の竜田揚げが食べられるレストランは次のお店だ。
「給食当番」 東京都台東区元浅草1-4-4
(都営大江戸線 新御徒町駅A3出口からスグ)
営業時間:ランチ:11:00〜14:00
     ディナー:18:00〜23:00(LO:22:00)
定休日 :日曜・祝日
TEL  :03-3847-0537
※支払いは現金のみ。クレジットカードは使えない。
永谷園のお茶漬け海苔
永谷園のお茶づけ海苔には太さ2mm、長さ1cmぐらいのぶぶアラレが入っている。湯で伸びてブヨブヨになる前に食べるとカリカリしてて香ばしくて結構うまい。ちょっと玄米茶っぽい香りもする。子供の頃これが大好きでよくお茶漬けをしていた。正式には熱い白湯を入れるものらしいが、私は煎茶か玄米茶を入れていた。この写真では鯵の開きをほぐして入れているが、塩鮭のほぐし身やあさりの佃煮、時雨蛤などをちょっとずつ入れてもうまい。子供の頃は朝トーストじゃない日はよく食べていた。その意味では私にとって懐かしい昭和の味の一つだ。永谷園ではこれを1952年から発売しており、ぶぶあられのほか、抹茶、砂糖や塩などの調味料、細く切った海苔という具も、赤、黄色、黒、緑のパッケージは歌舞伎舞台の定式幕をモチーフにしたものでこれまた昔から変わらない。
サッポロ一番しょうゆ味
醤油スープに細ちぢれ麺か中細麺。薬味はネギ。具はチャーシュー、メンマ、茹でたほうれん草は基本で、店によってナルトや海苔が乗っかるパターンのラーメンは荻窪駅や阿佐ヶ谷方面でよく見かけるということで「荻窪ラーメン」なんていっているが、なんのことはない。東京でラーメンといえばかつてはみんなこんなもんだった。
私が子供の頃、母が外でご馳走するというと決まってこの東京風ラーメンだった。それを家で食べるとなると、出てきたのがいつもこれ。サッポロ一番しょうゆ味にチャーシュー、メンマ、茹でたほうれん草を盛り付けた家庭版東京ラーメン。小学生の頃は春休みや冬休みに家で遊んだり勉強したりしていてお昼になると「ラーメン作ったヨ!」という母の声とともに写真のようなラーメンが登場したものだった。ちなみにこの袋麺、発売開始は1966年でまさに私の幼年時代とぴったり重なる。厳密にはこのしょうゆラーメンのプロトタイプは札幌のラーメン屋のものなのだとか。母が北海道出身だったのでスープが北海道風の味付けになっているものを選んで、トッピングを東京風にしていたようだ。私にとっては懐かしい昭和の味なのだが、子供たちは生麺タイプのラ王袋麺の方を喜ぶ。
袋の右上には白星入りの矢印が付いているがこれは井田毅社長(発売当時)が「パッケージの中に“おや?”と思う違和感を入れたほうが目立つ」というアイディアを出したことに由来する。