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日韓万華鏡

昭和の古民具6

昭和日常博物館3

「北名古屋市歴史民俗資料館」の収蔵品はまだまだあります!

収蔵古民具
子供の世界
ベビー用品
中央にあるのはベッドメリー。手巻きのゼンマイを巻くと子守唄のオルゴールが流れ、モビールがくるくると回る。首が座らない時期から寝返りができるまでのいわゆる「おねんね」の時代に天井を見つめている赤ちゃんが色鮮やかで動くものを目で追えるようにすることで脳の発達を促すというおもちゃ。向かって下左は粉ミルクの缶、中央はガラガラ、右下はそれで遊ぶ赤ちゃんを模したマネキン人形で赤ちゃんべやを表現。これが平成版の最新鋭のベッドメリーだとコンピューターで赤ちゃんが泣くと自動的にオルゴールが鳴って回りだす機能が搭載されていたりする。
ガラガラは現在はプラ製が普通だが、かつてはセルロイド製だった。また、ガラガラが置いてある台は赤ちゃん用のテーブル。
平和鳥
電池も何もないのに鳥がずっと水を飲み続けるという不思議な玩具。中には永久機関だ!…という方もいらっしゃるようだが、さにあらず。温度差を利用して熱エネルギーを運動エネルギーに変換して動いているのである。
これを考案したのは実は日本人。1952年に小林直三氏が考案した。現在平和鳥は日本製と中国製があり、日本製は手作り、中国製は大量生産品だ。体はガラス製。顔とくちばしはフェルト製。中身の液体・エーテルがおしりの部分で蒸発して頭にのぼるとそこで液化し、頭が重くなると体が傾いて水を飲む動作をする。すると頭のエーテルが中野パイプを通ってお尻に移動。そして起き上がる…を繰り返しているのだ。
グリコとおまけ
おまけのコーナーで紹介したグリコのパッケージはこちらの所蔵品。しかも昭和30年代製と見られる木製の車やボンネットバスのおまけも一緒に展示している。
グリコじたい、発売開始は1922年と古い。初期のおまけは紙製のカードや大阪造幣局作成の銅製メダルで、戦前は陶製の洗車などが入っていたようだ。現行グリコは初期の頃と同じハート型だが、私が覚えているのは四角いもの。この角形は1953年から1987年まで製造されていた。
メンコ
面子という遊びは江戸時代のちょうど暴れん坊将軍が活躍した頃である享保年間に登場した。当時は型抜きした粘土を乾燥させて素焼きした「泥めんこ」、それが明治維新に材質が鉛にとって変わられた。しかし、鉛は鉛中毒を引き起こす毒物だということで1900年に使用が禁止され、今日のような紙製となった。地面に置いたメンコに別のメンコを叩きつけ、置かれたメンコがひっくり返ったり、置かれたメンコの下に入ったりするとそのメンコを取れるというのが一般的なルールだが、勝負に負けると自分のメンコが相手に取り上げられてしまうのでロウを塗って強度UPを図ったり、あっさり裏返らないようにシワをつけたり各自創意工夫した。かくゆう私は?…というと勝負ごとに弱いので正直あまりやらなかった。
写真のメンコは鉄腕アトムやトッポジージョやだっこちゃんが見えるところから1960年代半ばのものと思われる。

その他生活用品
手水(ちょうず)
下町風俗資料館にあったポットン便所の前に吊るされていた手洗い器「手水」がここにもあった。こちらはブリキ製ではなくホーロー仕上げになっている。
目覚まし時計
ゼンマイ式でネジを巻き、アラーム用の針を起きたい時間にセットして使う目覚まし時計。朝になるとジリリリリとけたたましく鳴る。ベルがピピピっという電子音でないところが昭和らしい。
牛乳箱
牛乳配達の人が早朝、配達した瓶牛乳を入れる木製の箱である。牛乳箱は下町風俗資料館でも公開しているが、こちらは雪印牛乳のもの。実は子供の頃うちでとっていたのは雪印牛乳だった。したがってこの黄色の地に赤文字で雪印牛乳と書かれた箱には馴染みがある。
最近この箱のコピーでインテリア用のものがあるがSNOW BRANDという当時はなかった文字が入っていたり、本来は紺色のスノーマークが文字と同じ赤色だったり、文字の配列も雪印と牛乳を分けず一列配置にしたりと、イメージがかなり変わってしまっている。
違うんだよなぁ…と思わずつぶやいてしまった。
本物はこの写真だ。また、本物は向かって左側側面に牛乳販売店の屋号等が記されている。
この昭和日常博物館では牛乳箱と一緒に当時の牛乳瓶も一緒に展示している。

街角で

床屋の椅子
床屋の椅子こと「バーバーチェアー」の起源はアメリカで南北戦争の頃、既にあったのだとか。1850年頃には量産化されてたが、フットレスト付きリクライニング式シートのものは1878年にセントルイスのアーチャー社で特許を取得している。
日本には文明開化で西洋式の床屋が伝来するのと合わせて輸入される形で伝来した。
江戸時代はご存知のとおり丁髷を結う髪結床。西洋式の床屋技術は小倉虎吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉ら日本理容師の祖といわれる人たちが外国船に出入りし、技術を学んだところから始まった。
床屋というと椅子の他にもう一つ名物がある。
「サインポール」とか「バーバーポール」といわれる赤白青のネジリン棒だ。
こちらのネジリン棒はバーバーチェアよりぐっと古く、産業革命以前からある。
近代化以前は理容師は外科医師と兼業で傷の手当て、抜歯、血を抜く瀉血などを行っていた。
近世ぐらいまでは病気は悪い血が原因だと考えられていて、病人は腕を出して、棒を杖のように持って腕を固定、外科医兼任の理容師が上腕の血管を切り、血を抜いていた。この杖のように持つ棒が赤く塗られていて、それに洗った包帯をぶら下げて乾かしていた。その包帯が巻き付いた姿から白と赤のネジリン棒になった。
アメリカ建国100年の1875年頃、その紅白のネジリン棒に星条旗の色に合わせて、青のネジネジを加えた、赤と青で動脈と静脈を示した…などの説がある。
赤電話
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でタバコ屋の店頭にあった赤電話。公衆電話の一種だが、電話ボックスに設置されていた青電話とは異なり、食料雑貨店ゃ駄菓子屋など商店お店頭に置かれていた。10円硬貨専用でテレフォンカードも使えない。従って、遠距離電話はほぼかけることができない。1951年に登場し、1995年に廃止された。
今はNTTとなっている当時の電電公社が商店や公共施設等に管理を委託していた公衆電話で正式には「委託公衆電話」という。プッシュ式ではなくダイヤル式。ダイヤルの文字盤に平仮名の「と」を逆版にしたような模様が付いているが、これは目の不自由な人がダイヤルの文字を触って電話をかけられるよう3,6,9の部分に3本のガイドラインをつけたもの。
給食
給食用食器とトレイ
平成時代のメラミンとかポリカーボーネットとかポリプロピレンなどプラスチック製食器が普通だと思うが、昭和の給食はずばりアルマイト食器だ。
給食自体は明治時代からあったようで、記録としては1889年に山形県鶴岡市(当時は鶴岡町)の忠愛小学校で貧しい子供たちのためにおにぎり、塩鮭、漬物を昼食に出したのが始まり。本格的に小学校に給食が広まっていったのは戦後まもなくのこと。子供たちが飢えている…ということで米軍はララ物資の脱脂粉乳を1947年に給食用に支給。1949年にはユニセフから脱脂粉乳の寄贈があり、1950年には米軍が小麦粉を寄贈。それを使い、8大都市で「コッペパン、脱脂粉乳、スープ、コロッケ、キャベツの繊切、マーガリン」の完全給食が始まり、1952年に全国の小学校へと拡大していった。
アルマイトの食器はこの戦後まもない時代に導入されたもので、ご年配の方なら脱脂粉乳、コッペパンとセットになって覚えていらっしゃるかも知れない、