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日韓万華鏡

特急電車&気動車

在来線の特急電車は1958年、気動車は1960年、新幹線は1964年に登場しました。いずれもスマートで洗練されたデザインが当時の子供たちを魅了しました。

ギャラリー

0系
 フランスのTGV、ドイツのICE,スペインのAVE,イタリアのTAV、韓国のKTX、台湾の台湾高鉄など、世界には時速200キロ以上で走行する高速鉄道が各地で運行されていますが、その元祖ともいえるのが日本の新幹線。そのオリジナル車両が1964年に10月1日にデビューした東海道新幹線0系です。
1964年から1986年までの23年間に合計3,216両が製造されました。
当初はひかり、こだま共全車指定席12両編成で、グリーン車(1969年から。デビュー当時は1等車。)とビュッフェが各2両ずつ連結されていました。
その後こだまのビュッフェを1両にするなどひかりとこだまの編成差別化が図られ、1970年の大阪万博に合わせ、ひかり号が16両編成となりました。
1973年にこだま号も16両編成に増結し、山陽新幹線岡山―博多開業の前年となる1974年からひかり号に食堂車が連結されました。
  根府川をつき進む東海道新幹線0系電車

かつて大阪・弁天町にあった交通科学博物館に展示されていた0系先頭車。今見るとまるくてユーモラスな顔に見える。 交通科学博物館に展示されていた0系の運転台。ノッチ(車でいうアクセル)とブレーキの配置が在来線特急とは正反対。
交通科学博物館に展示されていた0系電車普通車車内。製造当初、普通車指定席の座席は青とグレーのモケットで背もたれを前後にバッタン、バッタンと倒して座席を進行方向に向けていた。
幼稚園年長組の夏休みに初めて新幹線ひかり号に乗ったが、そのときの座席はまさにこんな感じだった。クーラーがめちゃくちゃ利いていていて、母が寒い寒いと言いながら上着を着ていたのが印象的だった。
1980年頃になると普通車の座席はへ―ゼルナッツ色の簡易リクライニングシートに交換された。しかし、3列座席の側はシートピッチと背もたれの厚さの関係で回転して進行方向向けることが出来なかった。そこで車体中央を境に椅子が全てデッキ側を向いた「集団離反式」に固定されていて、常に座席の1/3が進行方向逆向きになっていた。全ての座席が進行方向を向くのはその後100系が開発され、シートピッチが拡大され、背もたれが薄くなってからだった。
交通科学博物館に展示されていた0系電車ビュッフェ車・車内。窓と並行したカウンターがあり、その前には回転式の椅子がセットされていた。初めて新幹線に乗ったとき、父がこのビュッフェのカウンターで海老フライ定食を御馳走してくれた。 0系新幹線には幻の列車が存在していた。それがこれ、ドクター・イエロー。新幹線の線路や架線に異常がないか定期的に走って測定する車両だ。都市伝説では「見ると幸せになる」そうである。
名古屋駅を出発する特急ひかり号。1979年8月撮影。丁度この頃から普通車の座席はへ―ゼルナッツ色の簡易リクライニングシートに交換始めていた。また、1976年以降に製造された0系は石や冬のつららなどが飛んで窓ガラスが割れるトラブルを回避するため、窓ガラスが従来の広窓から飛行機のような小窓に変わり、さながら羽をもがれた飛行機のようないでたちとなった。
100系
最高時速220キロ運転、2階建ての食堂車、シートピッチを0系の98cmから104cmに拡大し、背もたれを若干薄くすることで3人掛けの座席も全席進行方向向きに出来るよう改良するなど0系の改良型として昭和末期となる1985年に登場した。グランドひかり編成は最高時速250キロ。

東北・上越新幹線用200系電車
私にしてみれば、上野駅から東北本線、上越線の特急を退場させた仇みたいな存在ではありますが、アルミ製ボディーを持ちながら0系を踏襲した丸い鼻を持ち、0系37形ビュッフェと同じデザインのビュッフェを連結したこの車両はどこか憎めないものがありました。
200系電車先頭車・222-14
0系とよく似たコアラ顔ながら雪国を走る列車らしくスカートにはスノープロウが付いている。
200系グリーン車車内
茶系統でまとめられた落ち着いたインテリアだった。
200系普通車車内
へ―ゼルナッツ色の3列・2列のシートが並ぶ様は0系と代わりがないが、クーラーの吹き出し口がフラットなのが特徴となっている。