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日韓万華鏡

旧型国電

昔の電車はモーターが車軸と台車枠に吊り掛けられていて、これを「吊り掛け駆動方式」と言いました。走る時、グォォォォォンという重い音がするのが特色で、旧日本国有鉄道に在籍していた車両は、「旧性能電車」とか「旧型国電」などと呼ばれていました。

ギャラリー

20m級国電
2扉車
 2扉のロングシート車(長椅子)というのは電車ではありません。クロスシートといってボックス席が並ぶものばかりですね。通勤電車というよりも急行や快速のような或る程度長い距離を走る電車に使われたドア配置です。当初の導入線区が関東なら横須賀線、東海道線。関西なら京阪神の今でいう新快速みたいな路線に導入されました。
 
   
クハ47 009
1930年に横須賀線用の制御車として製造された車両。横須賀線は海軍の基地が置かれた軍港の街だったため、軍事路線として重要視され、早くから複線電化が進んだ。東京-横須賀62.4km区間というのは昭和初期の電車路線としてはとびきり長い路線だったということで、ロングシートはドアの周りだけであとはクロスシート(ボックス席)ということになった。
クハ47 069
こちらのクハ47も1930年に横須賀線用として製造された点はクハ47 009と同じだが、こちらの場合は製造当初は運転台の無い付随車「サハ48015」だった車両。戦後の1956年に運転台を取り付け、クハ47に改造された。小津安二郎の1950年代の映画に出てくる横須賀線は丁度こんな感じだった。
 
クモハ53 007
1937年に流電クモハ52形の増備車両モハ43041として製造された。芋虫のような顔つきのクモハ52は001から006までしか製造されず、以降の増備は半流線形と言われる軽く丸みを帯びた前面を持つタイプに変更された。新製当初は京阪神急行用電車だったが、戦後阪和線特急電車となった。その後、モーターの出力をアップ、1953年にクモハ53 007に改番し、飯田線に転出していった。
クモハ42 005
山口県の小野田線本山支線は小野田線雀田駅から分岐し長門本山駅まで向かう2.3kmのいわゆるヒゲ線である。JR西日本館内で最後の旧型国電が走る運転区間として2003年までこのクモハ42形電車が運行されていた。平成時代に入るとすぐにワンマン化されたが、私が乗車した1981年には単行運転ながらしっかり車掌が乗務していた。そして、カメラケースを持っている電車ヲタクである私の姿を見つけるとすぐにやってきて「記念に車補(車内補充券、車掌の販売する切符)買いませんか?」と声をかけられたのだった。

クモハ42 005
同じ電車を反対側から見てみた。さて、このクモハ42は1933年に京阪神急行用電車として製造されたもの。増結用だったため、運転台は前後両方に取り付けられている。そういう構造だったため、単行運転に都合が良かったようだ。
クモハ42 005室内
ドアの両側だけが線路と平行なロングシート(長椅子)であとは客車並みのクロスシート(ボックス席)となっている。よく見ると灰皿が設置されており、「あれ?禁煙じゃなかったの?」と驚かされる。

流電モハ52形

クモハ52 001
1936年に川崎車両兵庫工場で製造された。ドイツの「フリーゲンダーハンブルガー(Fliegender Hamburger)」気動車の流線形デザインがカッコいいということで流線形のデザインが一種のブームとなり、1936年と翌年37年にわたり、流電モハ52形が製造された。001がJR西日本吹田工場に、004がJR東海リニア・鉄道館に保存されている。これは吹田工場で許可を撮って撮影させていただいたもの。
クモハ52 001の車内
吹田工場に保管されているクモハ52 001の車内を後部貫通扉のガラス越しに撮影した。照明は丸いシェードに覆われた白熱灯だ。なお、このクモハ52は1949年まで京阪神急行電車として運行され(戦時中は茶色一色に塗られ、通常の三等車として使用)、1950年から53年まで阪和線で使用されたのち、飯田線に転出。1978年に廃車となった。1981年には戦前の貴重な史料であるところから準鉄道記念物に指定された。

80系電車





























田切-伊那福岡を行くモハ80系300番台4両編成




モハ80 384
クハ86 339 (豊橋駅にて。中部天竜と書かれた案内板は出発時に外していた)
80系電車は日本で最初の本格的な長距離電車として1949年に開発され、東海道線東京―沼津と伊東線で運行を開始した。その後、静岡、浜松まで運行区間を延ばす一方で、茶色とクリームという色違いの車両を京阪神急行電車に導入している。1949年製のクハ86は前面の窓が3枚だったが、翌1950年から2枚窓に変更された。この300番台の車両は1957年に日本車両製造されたもの。300番台はそれまでの屋根板および内装部分が木造となっていたものとは一変、全金属性車体となった。
モハ80 384
80系電車の中間電動車である。300番台の番号で分かるように1957年製の全金属製車体の車両。ただしこちらは製造メーカーが汽車製造。300番台の一部車両は1958年まで製造が続いた。それ以降製作された153系急行型電車とほとんど遜色はなく、東海、あまぎ、いでゆ、はつしまなど東海道線や伊豆方面へ向かう準急に導入され、東海道線を走る特急客車列車と変わらない高速運転をおこなっていた。


小野田線本山支線の車掌が発行してくれた車補。
いきなり「お土産に車補はどうですか?子供切符の料金で切りますよ」と声をかけられたときは驚いた。
何せ、鉄道ヲタクといえば、すぐキセルをする、駅で「邪魔だ!どけぇ〜!」とラフなマナーで写真を撮る、サボ(行き先表示板)などを盗むと鉄道職員の間で評判が悪く、肩身が狭かったものだから、車掌から声をかけてもらえるなんて夢にも思わなかったのです。

ここに切符があるということは当然お土産として購入させていただきました。

勿論若い頃の記念でもある。