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日韓万華鏡

SL/DL/EL/PC
客車 @旧型客車

旧一等車
客車の形式称号に「イ」というのがありました。かつて国鉄客車は1等車・二等車・三等車の三等級制で「イ」が一等車、「ロ」が二等車、「ハ」が三等車。二等車は現在のグリーン車、三等車は現在の普通車です。では1等車はというとまぁグランクラスです。作家の内田百關謳カは大枚はたいて堂々乗ってましたが、戦前の一等車は皇族、華族、財閥会長一族などごく一部の特殊な階層の人しか乗らない車両でした。一般人が自分へのご褒美で贅沢するなら、二等車。或いは「櫻」など三等特急に乗って、和食堂車でビフテキを食べるといった感じだったようです。そのセレブの世界は現在では一部の鉄道博物館で垣間見ることが出来ます。
マイテ39 11
写真のものは青梅鉄道公園に展示されていたときのもの。現在は埼玉県さいたま市のてっぱくこと鉄道博物館に保存されているマイテ39 11。 戦前の展望車であるスイテ39 1,2、スイテ38 2の3両が太平洋戦争で軍用列車が優先され、特急列車が走らなくなったことで、地方に疎開させられたり、事務所代わりにされた状態で終戦を迎えた。他の状態の良い展望車の中には米軍に接収され、米軍将校専用車に改装されたものもあったが、これらはそのまま残っていた様子。1949年に東京と大阪を結ぶ特急へいわ(翌年公募で「つばめ」に改称)が運行されることになり、その展望車としてこれら3両の展望車が冷房改造と内装の整備でマイテ39として復活することになった。
スイテ39 1と2は共に桃山式という展望室に和風の装飾がされたものだったが、両方とも傷んでいて、パーツの良いところを組み合わせると1両分にしかならなかったため、桃山式装飾部品をスイテ38 2に全てセットして和風展望車マイテ39 11を作った。部品取りに使われたスイテ39 1と最初から洋風アールデコ調装飾だったスイテ38 2は洋風装飾展望車マイテ39 1と21にそれぞれ改装された。展望室は客車の後部1/3。中央部1/3は大きな3列リクライニングシートをセットし、機関車寄り1/3は売店となった。そして一等車の接客係はベテランであるボーイ長が当った。そして特急へいわ号がつばめ号に改称したとき、英語が堪能な女性客室乗務員「つばめガール」が乗務するようになり、外国人客が一等車に乗り込んでくるとつばめガールが通訳を務めたという。
外国人にはマイテ39 11の桃山調展望室はエキゾチックだと好評だったが、日本人からは仏壇!とか霊柩車みたいと散々の酷評をされ、ついにマイテ39 11は予備車に回されてしまった。マイテ39 1、21は東海道線電化後他の客車や機関車共々若草色に塗装され、つばめ号が1950年6月から登場した姉妹列車の特急はと共にビジネス特急こだま号と共通運用となる1960年まで活躍し続け、1961年に両車とも廃車解体された。その一方で予備車マイテ39 11は1962年に廃車され、青梅鉄道公園に展示されたのだった。その青梅鉄道公園展示時代に訪れてさて撮影した。車内写真は展望車の窓越しに写してみた。奥の3列リクライニングシートと手前のソファーがオリーブ色だったのが印象的。後にマイテ39 11は永年の屋外展示で痛みが酷くなってきたので、大井工場で保管され修復された末、てっぱくで展示されることとなった。

マイネ40 7
戦前生まれの一等寝台車は上の展望車共々三軸ボギー台車という特殊な台車をはいていて、1962年初頭に全車廃車となったが、このマイネ40は終戦後GHQの指導で1948年に製造されたもので台車は2等車、3等車と同じ2軸ボギー台車とされ、合理化された。また、1等寝台車として初めて2軸ボギー車となったが、もうひとつ初めてがある。それは蛍光灯の採用だ。それ以前の一等寝台車は勿論車内照明は白熱電球だった。
車内は当初個室寝台4部屋と開放式寝台8区画が用意されたが、後に開放式寝台寄りの個室1部屋が喫煙室に改造された。開放式寝台の間仕切りは昼間は背もたれの中に収納し、夜ロックを外すと飛び出してくるように作ってあったため、部内では「ビックリ箱方式」と呼ばれていた。
一等寝台車らしく、布団地やカーテンは京都の西陣織が採用されている。1955年には1等車が廃止され、旧1等車と2等車を新1等車、旧三等車を新二等車とする形式称号改正があり、マイネ40はマロネ40となった。1972年まで活躍し、一部の車両が工事用客車など自業用車に改装されたほかは廃車解体となった。写真のマイネ40 7は工事用客車オヤ41 1に改装されて残っていたものを復元したものだった。佐久間レールパーク閉園後はリニア鉄道館で保存展示されている。

旧二等車
母に生前これらの写真を見せたところ、「あら、特2じゃないの。昔乗ったわよ」と言われました。かつての2等車には戦前からの並2等車と戦後GHQの指導で作られた特別2等車の2種類がありました。並2等車は背もたれが進行方向向けになる転換クロスシートのものと3等車と同じボックス席ながらシートピッチを広げてゆったりさせ、シートをふかふかにしたものがありましたが、いずれも昭和30年代半ばに3等車に格下げされていきました。それに対して特別2等車(鉄道関係者は特ロ、一般人は特2と呼んでいたようです)は4列リクライニングシートが特色で、客車グリーン車として1980年代初頭まで姿を見ることが出来ました。
スロ54 506
このスロ54は北海道旅行で急行まりもに乗ったとき撮影したもの。1982年8月に北海道旅行をした際に時刻表を見たら、夜行急行にグリーン客車が連結されているのを見つけ、グリーン券を購入した。網棚の下には読書灯が付いていて手元のガイドブックを見ることが出来た。夜行なのに興奮して寝られず朝まであちらこちらを見まわしていたのを今でも覚えている。このスロ54 506は1952年から1955年にかけて47両製造された0番台のうち窓を二重サッシとした北海道仕様に1966年~67年に五稜郭工場で改装された11両のうちの1両。
スロ62 2108
スロ62は大正生まれの木造客車の台車や台枠、ブレーキ装置、座席などを流用し、新たに鋼鉄製車体に乗せ換えて作った客車オハ61が余り気味だったため、並2等車と置換えるため、1959年から1962年にかけて特別2等車に改造しオロ61形としたものを1967年から68年にかけて冷房改造したものだ、
オロ61時代は屋根が高かったが、屋根をすべて撤去して低屋根化して冷房装置AU13A形5台を搭載し、冷房付きとした。スロ62もまた6両が北海道向けに二重サッシに改造されている。

旧3等車
スハ32系
スハフ32 372
スハフ32はスハ32系の車掌室付きタイプ。1929年に最初の20m級鋼製客車として製造が開始され1942年まで製造された。1931年までの製造分はダブルルーフで1932年製造分から写真のような丸屋根方式となった。初期タイプのダブルルーフ車は、うち7両が1938年から39年にかけて日中戦争に合わせて上海に送られた。ニス塗りの壁や日よけの鎧戸と共に一つのボックス席に窓が2枚あるその内装は戦前客車そのもののクラシックぶり。写真の車両は東北本線黒磯駅で撮影、乗車した鈍行列車に連結されていたが、同じ形式のスハフ32 2357は廃車解体されず現在も高崎車両センターに在籍、今でもイベント列車に連結されて使用されている。木で出来た床とボックスシートがレトロだと最も人気のある車両となっている。

オハ35系
左からオハ35 206(1941年製)、オハフ33 115(1939年製)とその車内(いずれも佐久間レールパーク保存時の姿)
スハ32系を改良し、各ボックス席に幅1mの窓ガラスが一枚の広窓車とした客車。1939年から製造が開始され、大戦末期の1944年から45年まで製造が中止され、1946年から製造が再開され、1949年まで製造されていた。国鉄鋼製客車の標準的なタイプで車掌室無しのものはオハ35、車掌室付きのものはオハフ33を名乗る。そのほか台車を交換して別形式となったスハ42、その近代化改造車のオハ36、オハ36に電気暖房装置を搭載したスハ40、オハ35を班室食堂車に改造したオハシ30等の派生形式もある。
1940年代の最も標準的な客車で静岡県の大井川鉄道では動態保存客車としてオハ35 22、149、435、459、559、857、オハフ33 215、469と8両も保有している。また津軽鉄道とJR北海道にもオハフ33が各1両ずつ現役車両として在籍している。写真のオハ35は佐久間レールパーク閉園でリニア鉄道館に移され、オハフ33は解体された。
佐久間レールパーク時代、オハフ33は戦前の姿に復元され、窓の下には3等車を示す赤帯が入れられ、座席のモケットはオリーブ色のものが取り付けられていた。大井川鉄道に在籍しているものは旧国鉄時代最後の姿をとどめて座席のモケットは上のスハフ32と同じ青色である。

スハ43系
オハ46 2515
スハ43の中で機関車の連結両数を増やし、スピードアップも図ろうということで軽量化が図られることとなった。従来のスハ43では布張り屋根だったのが鋼板屋根に、雨樋はプレス材に、客室内張りも合板と台車軸箱の肉厚を薄く、連結器の材質も軽いものに変え、2トンの軽量化を実現、形式が変更されたものがこのオハ46である。1955年に汽車製造、川崎車両、日立製作所で合計60両が製造された。
オハ47 2233
スハ43の中で戦前製客車をオシ16やオハネ17に改造する際、その戦前製客車と台車を交換してしまったものがあった。それがこのオハ47形である。台車が 異なるだけで車体自体は左の軽量型ではない本来のスハ43形である。このスハ43系の中で狭窓が連続し、座席が進行方向向けのロマンスシートになったタイプがあり、それをスハ44系(スハ44、スハフ43、スハニ35、マシ35など)という。
オハフ45 2015
スハ43系で車掌室付きはスハフ42形を名乗るが、オハ46と同様にスハフ42形にも設計変更をして軽量化したものがあり、それをオハフ45形と称する。車端に車掌室があり、後部の向かって右側に車掌室の窓が開いている形状もスハフ42と変わらない。スハ43系は戦後を代表する国鉄鋼製客車で大井川鉄道でもオハ47 81、380、398、512、スハフ42 184、186、286、304、スハフ43 2、3と10両ものスハ43系が在籍、JR東日本でも動態保存車両としてスハフ42 2173・2234・オハ47 2246・2261・2266 といったスハ43系客車を保有している。
オハ47 380室内
オハ47の車内写真である。スハ43系の車内は薄茶色のペンキ仕上げで縁をグレーに塗装されたボックス席が並ぶといった感じである。
ドアは元々手動式だったが、走行中にドアを開けて転落すると危ないということで、JR東日本に所属するスハ43系客車の場合はドアに電磁石式のロックを取り付け、走行中に開けられないようにしてある。また、JR東日本所属のスハフ42についてはテールライトがLED化され、車内の照明も蛍光灯をLED照明に交換している。オハ47形については汚物処理タンクを取り付けるなど近代化整備が進められている。

鋼体化客車オハ61系
オハフ61 3061
東北本線黒磯駅で1978年に撮影したオハ61系の車掌室付きの車両である。国鉄60系客車はスロ62の項で述べた大正生まれの木造客車鋼体化改造で生まれた客車である。1949年から1956年の間に全国鉄工場と主要鉄道車両メーカーを総動員して製造され、17mの木造客車5両から4両の60系客車を製造していた。1949年製はオハ60形といい、ボックス席2つに対し窓3枚の小型窓だったが、1950年から製造する客車がオハ35系と同じ幅1mの大型窓を持つオハ61形に移行した。オハフ61はそのオハ61の車掌室付きタイプである。古い客車の台枠や椅子を転用しているので、壁や椅子の縁取りはニス塗りで床は木で出来ており、同世代のスハ43系に比べるとクラシックな印象を受ける。この60系客車の場合、動態保存されているものは荷物合造車のオハニ36が2両。大井川鉄道はオハニ36 7、JR東日本はオハニ36 11を保有しており、JR東日本所属のものはテールライトがLED改造されている。

荷物車
マニ60 2534
上記の国鉄60系客車の荷重14トン荷物車で1953年から1955年にかけて製造されたオリジナル車と荷物車の不足から3等荷物合造車(車両の半分が荷物室で半分が三等車)オハニ61や郵便荷物合造車のオハユニ61形からの改造車両。合計565両が製造されている。窓ガラスに鉄格子がはまっているが、これは荷物の積み下ろしの際に誤って窓ガラスを割らないための配慮である。
事業用車

オヤ31 12
通称オイラン車。正式には建築限界測定車という。新線開業時に駅舎などの建造物が車両にぶつからないかどうかを測定するための特殊車両である。車端と中央部の3か所に矢羽根が設置されていて、広げた矢羽根に出っ張った軒先などがぶつかると矢羽根が倒れ、ケーブルか電気信号で車内にそれが伝えられ、記録されるという仕掛けになっている。その矢羽根が江戸時代のオイランが差すかんざしのようだということでオイラン車なる俗称が出来た。写真のオヤ31 12はスハ32 426から改造されたもの。写真のオヤ31 12は佐久間レールパークで展示されていたもの。佐久間レールパーク閉園後はリニア鉄道館に展示場所が移っている。
スエ30 8
1927年から1932年にかけて製造された17m級鋼製客車オハ31系客車の荷物車スニ30形を事故復旧用に資材を積む運搬車「救援車」に改造したもの。
このスエ30 8は1929年に大阪鉄工所で製造されたスニ30 95を改造したもの。ダブルルーフの屋根は明かり取り窓をふさがれている。佐久間レールパークで展示されていたが、閉園後は名古屋のリニア鉄道館に移転し、引き続き保存されている。