本文へスキップ

日韓万華鏡

路面電車1(東日本)

道路に敷設された併用軌道を走る路面電車。昭和レトロと言えば、都会の風景を彩ったのがこの公共交通機関だ。戦後の高度経済成長のとき、クルマが普及し、高速道路が発展するとともに道路は渋滞し、路面電車は道路の厄介者とされ、廃止が相次いだ。

ギャラリー

北海道・東北

札幌市電
1909年に開業した馬車鉄道をルーツとし、1918年に札幌電気軌道として路面「電車」の路線となり、1927年12月1日 に市電となった札幌市電。
最盛期には28kmを誇った総延長も廃止路線が相次ぎ、現在は8.41km、1系統で23停留所となっている。
一条線、山鼻西線、山鼻線の3区間に分かれているが、直通運転を行っている。2015年中に西4丁目とすすきの電停を結ぶ400メートルをつないで環状運転を実施する計画で現在堂区間の工事が進められている。
写真の車両は札幌市電現役最古参の210形で1958年製。写真の214号のほか、211~213が僚機として存在する。
写真は1982年8月のもの。元々は下半分をモスグリーン、上半分をベージュ(薄茶色)にしていたが、ワンマン化で蛍光赤色の帯が入り、後に帯の色が白に変更され、1990年代に床から下を白、他は鮮やかなグリーンに変更し、ヘッドライトもフロントグラスの下に1つ、おでこに1つからフロントグラスの下に2灯となっている。
函館市電
1894年に開業した馬車鉄道をルーツとする函館市電。最盛期には12系統6路線総延長17.9 kmという規模だったが一部路線が廃止となり、現在は2系統4路線、総延長10.9 kmとなっている。2軸単車の函館ハイカラ號だけが女性車掌が切符を発行するツーマン車で後の全車両はワンマン車である。
800形電車
1962年から1965年にかけて801〜812の12両が新潟鐵工所(現・新潟トランシス)で製造されたが、812号を除いて現在は全車車体更新で8000形または8100形になっており、最後の812号も今後8000形に車体更新される予定である。
710形電車
1959年から1961年までの間に14両が新潟鐵工所(現・新潟トランシス)で製造された。現在 715,、716,、718 、719、720、 721, 723, 724の8両がまだ現役として頑張っている。

関東甲信越
東武鉄道日光軌道線
1910年から1968年まで運行されていた日光-馬返10.6kmを結ぶ路面電車で東武鉄道が運営していた。馬返駅は標高838mに位置し、当時日本で最も高いところをはさいる路面電車で途中の区間には50‰以上の急勾配が随所にあった。
旧国鉄日光駅(現・JR日光駅)や東武日光駅から観光客を東照宮や華厳滝、中禅寺湖などへ輸送する交通機関でもあったが、古川電工への貨物輸送もになっていた。第一・第二いろは坂の開通により貨物輸送がトラックに切り替わり、観光客がバスやマイカーで移動するようになったため、廃止となったが、CO2を出さず、建設費も安い路面電車が時給に優しい交通機関として注目を集めている今、日光の自然を守る交通機関として存続できなかったことが惜しまれる。
なお、写真の電車は東向島・東武博物館の屋外に展示されている東武200形電車203号。2両編成の連接車で連結面の部分に1台車、先頭と最後尾にそれぞれ1台ずつの台車、合計3台の台車で2つの車体を支えている。1954年に合計6編成が製造され、201〜204が汽車会社東京支店、205~206が富士重工宇都宮車両(2003年に新潟トランシスに事業を譲渡し閉鎖される)で製造された。なお、日光軌道線には車体が一つの連接車ではない一般のボギー車100形電車もあり、廃止後岡山電軌に譲渡されたが、全車廃車。1両だけ日光霧降高原チロリン村に保存展示されている。
都電荒川線

























かつては41系統もの路線を保有し、総延長213kmにも及ぶ日本一の路面電車事業者だったが、廃線、縮小を続け、1972年に現在の「荒川線」を残して全廃となった。荒川線は元々27系統(三ノ輪橋 - 赤羽)と32系統(荒川車庫前 - 早稲田)の2路線だったが、王子電気軌道が敷設した私鉄路面電車だったのを1942年に戦時中の交通統制により東京市(東京都の前身)が買収し、都電路線の一部になったところで、大半が専用軌道。平行する道路「明治通り」の渋滞が酷いため、バス転換をすると定時運行が難しく、沿線住民から存続の要望が多かったため、残った路線だった。
1974年に「都電荒川線」に呼称変更し、1978年にワンマン化し、車掌を廃止した。
この写真は「都電荒川線」に呼称変更する前の1970年代初頭の荒川線の姿である。この時代は勿論車掌が乗務し、切符を切っていた。
(写真提供:板橋不二男さん)
東急玉川線
東京都区内に残る路面電車は戸で楢川線だけではない。もう一つ東急世田谷線がある。
三軒茶屋ー下高井戸5.0kmを結び、全区間が専用軌道。車両は路面電車タイプの電車だが、軌道はほぼ鉄道で、江ノ電よりもローカル私鉄っぽい雰囲気が漂う。
2両編成で前に運転士、後に車掌が乗り、前後それぞれに運賃箱が置かれ、料金を収受していた。
1999年から2001年にかけて旧型車両を全て廃車し、現行の300形電車に置き換えたが、その際にドア開閉業務を行わない女性の車内アテンダント乗務に切り替えた。
世田谷線の前身が東急玉川線だ。
玉川線は1907年に玉川電気鉄道の砂利輸送路線として道玄坂上 - 三軒茶屋で開業したのち、延伸し、渋谷 - 二子玉川園間 9.1kmの路線となっていた。東急に買収される前は玉川電気鉄道の一支線に過ぎなかった区間だ。
クルマや高速道路の普及、すなわちモータリゼーションの影響で利用者が減り、更に田園都市線の一部となる新玉川線建設が決まったことで1969年に渋谷-三軒茶屋と下高井戸-二子玉川が廃止、三軒茶屋-下高井戸のみが「東急世田谷線」として存続となった。
写真の200形電車はその玉川線渋谷-三軒茶屋と下高井戸-二子玉川廃止時に廃車となったもので、東急電車とバスの博物館に保存展示されている。
1955年に東急車両で製造され、モノコック構造で連接車。中空軸平行カルダン駆動やHSC発電ブレーキ連動電磁直通ブレーキなど当時の最新鋭の技術をすべてつぎ込んで作った低床高性能電車である。
断面が飛行機並みの卵型で鉄道雑誌で「玉電、たまたま、卵の連接」などと妙なキャッチコピーを付けられてしまったが、運転席は覗き込んだらものすごく狭く、石塚や伊集院光のような体格の良すぎる運転士さんだと運転席に入れないんじゃないか!?…と思ってしまった。
横浜市電
1904年に神奈川 - 大江橋間開業で開業した横浜市電。最盛期の総延長は51.79kmに達し、鶴見から磯子まで横浜市のかなり広いエリアをカバーしていた。横浜市中心部に住むハマっ子たちは逆に市電の走らないエリアを「横浜のチベット」などといって小馬鹿にしていた。昭和30年代のモータリゼーションを迎えると利用者が減少。交通渋滞にも悩まされた。昭和40年代には路線縮小が続き、1972年3月31日に全廃となった。
アニメ映画「コクリコ坂から」でもおなじみの中区麦田町にある麦田トンネルはアニメ通り元は市電が行き交うトンネルで横浜市電の遺構でもある。
保存状態の良い当時の電車は磯子区滝頭にある横浜市電保存館と久良岐公園で見ることが出来る。
 1000形電車1007号(1928年)
横浜市電初のボギー車として 1928年に製造された。それ以前の市電車両は単車といって短い車体の下に長めの台車が一つあるだけのタイプばかりだった。
この1000形モーターのパワーがあまり強力ではなかったため、坂道の少ない平坦な路線で運用されていた。市電全廃前の1970年に廃車となっている。
1100型電車1104号(1936年)
ロマンスカーというと誰もが小田急の新宿から箱根湯本へ向かう特急電車を連想してしまうが、市電保存館で展示されているこの1100形電車も、2人がけクロスシートを片側に3脚ずつ、合計12席設置していたため、「ロマンスカー」と戦前呼ばれていた。戦時中にクロスシートは撤去され、戦後に一般的なロングシートとなったため、ロマンスカーではなく単なるワンマン仕様の市電になっている。
1150形電車1156号(1952年)
久良岐公園に保存されている横浜市電1156号は1150形電車で唯一保存された貴重な車両。1973年から保存されているが荒廃がひどかったのを市民ボランティアが再整備して往年の輝きを取り戻した。因みにこの復元ではツーマン車仕様、つまり車掌さんが乗るスタイルの状態に復元している。普段はフェンスの中にあり内部見学はできないが、日にちを決めて車内公開イベントも催している。このイベントでヘッドライトと方向幕の明かりを煌々と灯した雄姿を見られるのはうれしい。
1300型電車1311号(1947年)
横浜市電最後のツーマン車。1971年の3系統(生麦 - 横浜駅東口 - 山元町)廃止と共に廃車となった。1000形と同様の大型3扉車だったが、1000形とは違い、モーターのパワーがあったため、こちらは坂道の多い路線での活躍が目立った。なお、これら市電保存車両の肌色の地にコバルトブルーのラインは最晩年の姿。1960年代に入るぐらいまでは下半分が紺、上半分がクリーム(左上の1000形電車の背後に見えるカラーリング)だった。
江ノ島電鉄
江ノ電というのは不思議な電車だ。「路面電車」をテーマにしたムックや単行本では必ずレギュラー出演しているのに実際は単なる鎌倉市と藤沢市を結ぶ一ローカル私鉄に過ぎない。なのにトンネルもあれば総延長920mもの併用軌道(道路に敷かれたレール)もある。
実は江ノ電は1902年に藤沢停留所-片瀬停留所(現・江ノ島駅)で営業を開始した正真正銘の路面電車だった。それが太平洋戦争末期、平塚の軍需工場から横須賀鎮守府までの軍事物資輸送で東海道線と横須賀線が米軍の攻撃を受けた際の迂回路として軍が軌道(路面電車)から鉄道(地方私鉄)に無理やり変更してしまったのだった。鉄道路線より建築限界が低く、それこそ民家の軒先をかすめるようにして走っているのに弾薬を積んだ貨車を通すなどとは無茶苦茶な話だったのだが…。
それで江ノ電は戦後間もなくの1945年11月に正式に地方鉄道となり、1955年には電停の乗り場を高くしてプラットホームにする工事が完了したため、ドアを改造してステップを撤去し、今のような何となく路面電車っぽいローカル私鉄に変身した。
写真の601号は東急世田谷線から譲渡されて転属してきた車両。1990年に廃車となり、世田谷区宮坂区民センターに保存された。