本文へスキップ

日韓万華鏡

路面電車2(西日本1)

道路に敷設された併用軌道を走る路面電車。昭和レトロと言えば、都会の風景を彩ったのがこの公共交通機関。戦後の高度経済成長のとき、クルマが普及し、高速道路が発展するとともに道路は渋滞し、路面電車は道路の厄介者とされ、廃止が相次ぎました。

ギャラリー

東海・近畿・北陸

豊橋鉄道東田本線

























豊橋鉄道モ3700形電車3702号(1927年)
豊橋市内を走る路面電車「豊橋鉄道東田本線」には2007年までレトロ電車として旧名古屋市電1200形電車が活躍していた。1927年日本車両製で韓国・ソウル歴史博物館に保存されているソウル市電が製造される3年前に作られたもので、前面のデザインなどが若干似ている。(左下の写真)
 廃車まで現役で活躍する日本最古の路面電車だった。豊橋鉄道では1963年に名古屋市からこの車両を譲渡されている。
転入当初の色は何とこのソウル市電のようなカラーリングだった。
そして、1967年のワンマン化改造でクリーム地に朱色の帯の豊橋鉄道色となり、1996年に製造当初のチョコレート色、つまりこの写真の色に塗り替えられた。
 廃車後は豊橋駅から徒歩7分の「豊橋市こども未来館ここにこ」の屋内にこのチョコレート色のカラーリングのまま保存されている。




豊橋鉄道モ3100形電車3103号
豊橋鉄道が旧名古屋市電1400形電車(下の名古屋市電の一番左の写真と同形式の車両)を1971年に譲り受けて導入したものである。日中戦争勃発前の1937年、戦前の日本で最後に開かれた大がかりな博覧会である「名古屋汎太平洋平和博覧会」に先立って観客輸送対策として名古屋市が今後の標準的路面電車車両として1936年から導入したのが名古屋市電1400形電車である。
豊橋鉄道に譲渡されたものは1942年新潟鉄工所(現・新潟トランシス)製のもので、長らく豊橋鉄道東田本線の主力車両として活躍、1990年から1994年にかけて冷房改造もされたが、老朽化が進んだため、イベント用車両3102号を残して名古屋鉄道岐阜市内線から転入してきたモ780形と置き換えられ、全車廃車解体となってしまった。
イベント用の3102号は普段は車庫に留置されているが、夏、ビール電車に活用されている様子だ。
名古屋市電
名古屋の路面電車の歴史は京都に次いで2番目に古く、1898年に名古屋電気鉄道によって開業された。この名古屋電気鉄道、市内電車区間と都市間電車ともいえる「郡部線」があり、市内電車が後に名古屋市交通局、郡部線が後に名鉄こと名古屋鉄道へと発展していった。つまり、名古屋市電とあのパノラマカーを運行する名鉄はルーツが同じなのである。その名鉄とルーツを同じくする名古屋市電は電力料金や設備維持費やモータリゼーションの影響で1974年に全廃された。
名古屋市電1400形電車1401号(1936年)
名古屋市科学館の玄関に展示されている1401号。豊橋鉄道東田本線の3103号と同じ形式ながら、最初期に製造されたもの。1936年日本車両製。
名古屋市電3000形電車3003号(1944年)
名古屋市市電・地下鉄保存館(レトロでんしゃ館)に展示されている2車体3台車の連接車。戦時中の工員輸送のために作られた車両で1970年に廃車。当初は名古屋市科学館で屋外展示されていた。
名古屋市電2000型電車2017号(1956年)
1956年に日本車両で製造された直角カルダン駆動、弾性車輪(車輪にゴムが貼ってあり、走行音が非常に静か)という当時の最新鋭の技術を駆使した進歩的な電車。1972年廃車。

富山地方鉄道富山軌道線

またの名を「富山地鉄市内電車」ともいう富山地方鉄道富山軌道線は1913年に一府八県連合共進会本会への会場輸送用として運行を開始した。当初は富山電気軌道が運行していたが、経営不振から1920年に富山市に譲渡され、富山市電となった。そして戦時中の輸送統制で富山市電は富山県下の鉄道、鉄軌道、バス会社と合併し富山地方鉄道にとなった。
最盛期は総延長約11km、6路線12系統(反対方向の電車は奇数系統+1で系統番号を設定していた)の規模を誇ったが、クルマの増加により利用者が減ったところから廃止が相次ぎ、1984年には総延長が6.4km、南富山駅前から大学前までの1路線のみとなってしまった。
平成期に入ると新交通システムや地下鉄の建設に莫大な予算がかかることから路面電車が見直されるようになり、富山軌道線に限らず全国的に路面電車を維持存続させる方向に傾いたため、今日も運行を続けている。なお、富山市では路面電車を見直した関係でこの富山軌道線だけでなく、JR西日本富山港線を引き継いで路面電車化した富山ライトレールも新たに富山市内の路面電車の仲間に加わった。写真の車両は富山ワシントンホテル前を行くデ7000形電車。1969年にワンマン化、1984年から1989年にかけて冷房化が実施された。この電車は1983年に撮影されたため、まだクーラーを搭載していない。
京都N電
この写真の古色蒼然たる路面電車は明治村で撮影したもの。日本で最初の路面電車路線として1895年2月1日に運行を開始、琵琶湖疏水による水力発電で生み出された電力を活用する形で京都電気鉄道が運行した。当初市街地を走るとき人と接触しないように電車の前を走って「どいとくれやっしゃ!危のうおまっせ!」と叫びながら人払いをする先走り人なる者が用意された。その多くは子供だったが、電車に轢かれる事故が多かったため、行き違い箇所で必ず電車を行き違わせる、タブレットやトロリーコンタクターの導入などで先走り人を廃止した。
この京都電気鉄道の路線は1918年に京都市に買収され、市電となった。京都駅前と上京区北野天満宮前を結び、堀川線とか北野線などと呼ばれていた。堀川線車両は他の市電とは異なり、JR在来線と同じ線路幅である1067mmでナロー路線だったため、狭軌1形電車(通称「N電」)よ呼ばれた。廃止は1961年。
廃車後明治村に譲渡されたのはN8とN15の2両。明治村に引き取られた後はN8が壱号電車、N15 が弐号電車と命名された。
京福電鉄嵐山線
京福電気鉄道 モボ121形125号(1936年)
四条大宮と嵐山を結ぶ嵐山本線と途中の帷子の辻から枝分かれし北野白梅町へ向かう北野線で構成される「嵐電」こと京福電鉄嵐山線。
併用軌道と専用軌道が混在する観光路線の京福電鉄嵐山線はまるで京都の江ノ電という風情。
1910年に現在の四条大宮と嵐山の間に京都の郊外電車として運行を開始した。当初経営していたのは嵐山電気軌道。しかしこの会社資金難に陥り京都電灯に吸収合併される。1942年には京都電灯が新たん電力会社に出資して解散。鉄道部門が独立して京福電鉄となった。
写真のモボ121形125号は1980年に京都に修学旅行に行った際に撮影したもの。ワンマン運転化前の時代で、ガクランのような詰襟の制服を着た車掌が切符を切っていて、古色蒼然としていた。モボ121形125号はは川崎車両で1936年に製造された。長らく京福電鉄の主力電車として活躍したが、老朽化が進み、モボ501形・モボ621形・モボ21形にモーターなどの機器を譲り、1996年までに全車廃車となった。
 

阪堺電気軌道
1900年に開業した天王寺西門前から東天下茶屋を結ぶ馬車鉄道をルーツとする阪堺電気軌道は南海電鉄から分社化した大阪唯一の路面電車。現在恵美須町 - 浜寺駅前 14.1kmを結ぶ阪堺線と天王寺駅前 - 住吉公園 4.6kmを結ぶ上町線で構成されている。
阪堺電気軌道モ351形電車355号(1963年)
南海電鉄時代末期に古い木造電車の置換え用として帝國車輛工業で製造されたもの。1986年頃から冷房改造されている。前面のデザインがかつての大阪市電2601形電車とどことなく似ている。
阪堺電気軌道モ161形電車167号(1928年)
モ161型電車は定期運行中の路面電車としては日本最古。非冷房で夏の日中はあまり運行しない。老朽化で廃車が進み161・162・164・166の4両のみが現役。写真の167号は既に廃車解体されている。
阪堺電気軌道モ161形電車172号(1931年)
同じモ161形だが、こちらは1931年製。172号は2014年に廃車、大阪市東住吉区のめぐむ保育園に園児の遊具として譲渡された。製造から80年を越えるオールドタイマーで残った車両も文化財クラスであることは確かだ。