昭和日常博物館1
商家のお茶の間昭和古民具を扱っている博物館だとお茶の間は定番だ。そういえば、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」とか「欽ちゃんのどこまでやるの」のコントでもお茶の間は定番だった。ちゃぶ台、黒電話、白黒テレビ、扇風機が昭和っぽさをかきたてる。 |
履物屋下駄や草履を売る履物屋のセット。ガラス戸の中には古い草履や下駄がびっしりならび、外壁はカラートタン波板で仕上げられ、ホーロー看板がとりつけられている。裸電球の街灯と大村崑のオロナミンCの看板がいい味を出している。 |
食料雑貨店…栄軒のパン…とペンキで書いた文字が消えてしまっているオンボロ看板が掛かっている食料雑貨店。パン屋の看板が掛かっているが、店の中は食料雑貨で溢れている。 |
煙草屋赤電話のある煙草屋の店頭。ストーカーの中はビン入りドリンク。駄菓子ショーケースの隣にはアイスクリームのストーカーが置かれている。 |
仁丹銀玉鉄砲の弾を小さくしたような直径2mm程度の小さな丸薬「仁丹」。経皮をはじめとする16種の生薬を配合し、丸めたもので、1905年に当時猛威を振るったコレラと梅毒の予防薬として発売を開始した。そのマスコットが大礼服をきたカイゼルひげのおっさんである。軍人だとかビスマルク像だとか言われているが、発売元の森下仁丹では外交官であるとしている。その「薬の外交官」がこのようにホーロー看板となっていた。 |
金鳥蚊取り線香「金鳥の夏、日本の夏」でお馴染みの金鳥蚊取り線香。こちらもホーロー看板としては定番だ。私の子供の頃は既に蚊帳が使われなくなり、夏の夜はもっぱらこの蚊取り線香が焚かれた。夜な夜な部屋は煙で白くなり、朝になると喉がいがらっぽくなり、パジャマがいぶされて煙臭かったのを覚えている。蚊取マットが発売されたときはもう煙い夜を過ごさなくていいんだ!…と子供心に喜んだものである。 |
縦型ホーロー看板各種縦型の細長い各種ホーロー看板である。イカリソースは西日本を代表するソースのブランドで関西でとんかつソースといえば、ブルドッグよりこちらのほうがお馴染みらしい。私の記憶ではドリフがイカリソースのCMをやっていて「俺はいかりや、ソースはイカリ!」と言っていた。味の素は有名な化学調味料、明治乳業 メリーミルクは赤ちゃん用の粉ミルクのブランドである。そして一番右のものはちょっと見慣れないがホーユーが1921年に発売した3剤式染毛剤「志らが赤毛染 元禄」のもの。 |
ノーシンとライオン歯磨きの縦型ホーロー看板こちらも縦型のホーロー看板。この手のホーロー看板は店舗の壁のみならず、電車の架線柱などにも取り付けられていた。写真のものは頭痛薬の「ノーシン」とライオン歯磨きのもの。頭痛の平仮名表記が「づつう」で「ずつう」になっていないところが昔風だ。 |
陸王来訪者のお爺さんが「あ、懐かしいなぁ!陸王だよ!」と指差して言っている方向に目を向けたところこのオートバイがあった。陸王はハーレーダビットソンを国産化したもので、1934年から1959年まで生産された。太平洋戦争中は日本陸軍のサイドカーに用いられていた。 |
スクーター同じような原動機付自転車でもオートバイタイプは燃料タンクの後のサドルにまたがるが、スクーターは足を揃えて乗れるようになっている。一番メジャーなのは配達用として定番だったホンダスーパーカブだったが、これは富士重工が出していたスバルスクーター「ラビット」である。 |
|
||
業務用自転車ごつい仕事用の自転車。昔はママチャリも子供用自転車もスポーツサイクルもなく、配達用のこれしかなかった。左のは酒屋などの御用聞きが普通に使っていたタイプだが、右の赤いものは色やフロントフェンダーの上に妙な台があるところから郵便配達用だった可能性がある。昭和40年代に子供用自転車が開発されるまでは子供たちはフレームの三角の部分に足を突っ込んで「三角乗り」をしていたようだ。ジブリ映画「となりのトトロ」で大垣勘太がその三角乗りを実際にやっている。 |
郵便ポスト1949年から1970年代まで作られた「郵便差出箱1号(丸型)」。下町風俗資料館の入口にあるものと同じものだが、こちらは現役ではなく、既に引退したもので、投函してもはがきは届かないのであしからず。しかし、商店街のセットの前に置かれていると郵便車が集配に来るんじゃないかって気分にさせてくれる。 |
井戸と手押しポンプこちらも東京・台東区の下町風俗資料館にあった「津田式ポンプ」と同じものである。元々のメーカー「津田式ポンプ製作所」は1970年に倒産しているが、考案した津田喜次郎の長女が商標、意匠を継承し、興陽産業製作所というメーカーで未だに作られている。最新型は鋳物製ではなく、アルミ製らしい。 |