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日韓万華鏡

昭和の古民具2

下町風俗資料館@

ここからは昭和古民具専門博物館の展示品を見てみましょう。
台東区立下町風俗資料館
JR上野駅しのばず口から徒歩5分。上野不忍池のほとりに土蔵風デザインの3階建てのビルが立っている。これが台東区立下町風俗博物館である。収蔵している古民具は昭和古民具だけでなく、明治大正期の古いものもある。3階は事務所で展示は1〜2階だけ。1階は駄菓子屋と職人が入居する長屋のセットや商家のセットがあり、2階には下町のアパートの一室や風呂屋の番台、カフェーのセットがある。

住  所: 東京都台東区上野公園2番1号
開館時間:9:30〜16:30(入場は16:00まで)
休館日 :月曜日(祝日と重なる場合は翌日)、12月29日〜1月1日
入場料 :大人300円
     小・中・高校生 100円

公式HP

セットタイプの展示コーナーから
ここの博物館の特徴は古民具をガラスのショーケースに入れず、映画のセットのようなところに展示しするパターンがメインになっているところだ。
職人の家の土間
長屋の一角にある「銅壺屋」と題する職人宅の作業場。「銅壺(どうこ)」とは長火鉢の灰の中に置き、その中に水を入れ暖めて使う戦前版湯沸かし器のこと。銅鍋ややかんなどと同様、銅板を板金で整形して作るので、銅板板金職人の家ということになる。雰囲気は江戸時代さながらだ。
職人の住む長屋の部屋
その銅板板金職人の作業場のすぐ後にあるのは銅板板金職人一家が暮らす居間である。トイレと井戸は長屋全体で共同。風呂は銭湯、煮炊きは土間となっている作業場の片隅でやっていた。随分と不便そうだが、江戸から昭和戦前までの職人の長屋暮らしはそんなものだった。
昭和の長屋
2階の展示コーナーの一角に設けられた昭和30年代の長屋の一間。玄関を入ってすぐ右には台所。ところが、システムキッチンは普及していないのか、ガスコンロは粗末なものがひとつっきり。その脇には当時最新鋭だった電気炊飯器。流しはステンレス板一発絞りではなく、トタン板を曲げて作った質素なもの。
昭和の商家の一間
長屋の中の駄菓子屋。その居住スペースがこれだ。設定では母親と娘の二人暮らしということだが、左の部屋と襖で仕切られていて2Kという設定だったとしたら、雰囲気は完全に映画ALWAYS三丁目の夕日に出てきそうな木造賃貸アパートのある一部屋という感じになる。実は幼年時代住んでいたところ、そういう感じだった!
カフェー
カウンターの左隅に大正時代風のラッパ型蓄音機があるのでモボ・モガ(大正時代のおしゃれな人たちをこう呼んでいた。男性はモダンボールの略でモボ、女性はモダンガールの略でモガと呼んでいた)が通りを歩いていた時代のカフェーをモデルとしているようだ。私が若い頃、おじいさんとおばあさんでやっているような古い喫茶店かミルクホールでこういう造りのところをときどき見かけた。
銭湯の番台
台東区内の古い銭湯から持ってきた番台とベビーベッド、湯船に入る入口ドア。昔の銭湯が再現されている。東京の銭湯は昔からとんでもなく熱いところが多い。店によっては46度とか47.5度のところまである。43度でも熱いと思っている私にとってはこれは熱湯である。低温やけどを起こさないのだろうか!?こんな「熱湯」を気持ちいいとおっしゃる方は43度なんて「ひなた水」なんだろうな…。

収蔵古民具
荷車
これはかなり珍しい。荷車の一種なのだが、人力車の足回りに箱型の物入れが乗っかっている。これを「箱車」と称し、リアカーやトラックが台頭するまでは配達に欠かせなかったとか。
人力車
鎌倉などの観光地などで見かける最近の人力車は2人乗りだが、こちらは明治初期の発明から路面電車やバスが普及する昭和初期までの時代に用いられた1人乗りタイプだ。最盛期には日本全土で20万台以上走っていたという。
駄菓子屋のショーケース
駄菓子屋にはつきものだった木の枠にガラスの蓋をつけたショーケース。ここでは最も標準的なスタイルが再現されているが、私の子供の頃はこのショーケースの中にデビュー間もないトミカを並べて1台180円という値札をつけて売っている店があった。
駄菓子屋の当て物と駄玩具
駄菓子屋の壁を再現したもの。当て物と呼ばれるくじ、お面、けん玉、コマ、塗り絵などが吊るされている。この駄菓子屋のくじ、私はやらなかった。「スカ」が出たらもったいないからと普通の駄菓子と駄玩具の購入に精を出していたのだった。
へっつい
関西では「おくどさん」などと言われるいわゆるかまどである。古典落語にはこの古いへっついに博打好きの職人の幽霊がとり憑き、へっついを手に入れたヤクザと博打をやる「へっつい幽霊」という噺がある。建物に作り付けになっているわけではなく、古道具屋で取引できるようなものらしい。羽釜の上には釜蓋。その上には火吹き竹が置かれ、火をつければ今にもご飯が炊けそうになっている。
ゴミ箱
サザエさんやいじわるばあさんでゴミ捨て場のシーンが出てくると決まって登場する木製のゴミ箱。側がコンクリート製のもあった。ゴミ捨て場に箱が1個?しかも分別収集していない!?昔はプラスチック包装なんてなかったし、芋なんかかった日には八百屋のおっさんが読んでいた競馬新聞かなにかで作った粗末な紙袋に突っ込んで渡すなど、ゴミの量が今よりずっと少なかったため、コレで済んでいたのだった。
真空管式ラジオ
テレビがお茶の間の中心になるまでは娯楽といえば、これ。真空管式ラジオ。ドラマもバラエティーもラジオでやっていた。私の物心ついたときはトランジスタラジオに変わっていたが、この真空管式ラジオでオールナイトニッポンを聴いた世代の方は或いはカメ&アンコー(亀渕昭信・斎藤安弘両アナウンサー)がパーソナリティーをつとめる1960年代末期から1970年代初頭のラジオ番組)をお聴きになっていたのではないだろうか。
ボンボン時計
ちょっと古い家に行くと必ずあったボンボン時計。八角の文字盤に振り子。30分毎にボ〜〜ン、ボ〜〜ンと鳴る鐘が特徴的だった。あのボ〜〜ン、ボ〜〜ンという音内蔵されたはコルクのハンマーでピアノ線を叩いて出している。これより大きいものは平井堅の「大きな古時計」のようなタイプになる。最近のものは電波時計でクオーツ式だったりするが、昔ながらのものは振り子式時計である。
井戸と手押しポンプ
井戸のポンプは「津田式ポンプ」といって1921年に津田 喜次郎(1888年 〜 1959)が考案、発売を開始した。レバーをガチャコン、ガチャコンと上下させて水を汲む姿はアニメ「となりのトトロ」でもお馴染み。ポンプの中に水が入っていない場合はレバーを上下させても水は組めない。そういうときは「呼び水」といってポンプの上から水をいれてやる。これが語源となって「呼び水」はある出来事を引き起こすきっかけを指すようになっていった。
足踏み式ミシン
足元の四角い板を足で踏んで前後にバタバタさせることで向かって右側のはずみ車を回し、先端に穴の空いたミシン針を上下させ、布を縫うようになっていた。小学生の頃、学校の家庭科室にこれがいっぱい有り、電動式ミシンはたったの一台。みんな、電動式ミシンの順番がくるまでこれで雑巾やら電話台の敷物を縫ったのだが、糸がブチブチとすぐ切れるのには閉口した。最近では仕立て屋さんでもないと使っていないかもしれない。
ポットン便所(お植樹中の方はご覧にならないでください)
物心ついたとき我が家のトイレは和式だったが水洗式だった。ところが、親戚の家や友人の家などで古い家を訪れると便器の底がなく、トイレットペーパーもロール式でなく木の盆にA4ぐらいのちり紙の山が乗せられているだけ。そして猛烈に臭く、ハエがブンブンと羽音を立てて数匹飛び回っていた。それがこれ。「ポットン便所」こと汲み取り式便所だ。
便器の下が、糞尿を貯めるタンクとなっていて、定期的にバキュームカーがその糞尿を集めに来る。そのバキュームカーがとんでもなく臭く、子供の頃は世界一臭いものはバキュームカーとみんなよく言っていた。なにせ100mぐらい前から臭うのだ。だけど「くっせぇ〜〜!」などというとバキュームカーのおじさんに「こらぁ!」と言われながらウンコをかけられるという、まことしやかな都市伝説があったため、私たちクソガキどもはバキュームカーの前を通るときは息を止めて何食わぬ表情で歩き、バキュームカーが見えなくなったところでプハァ〜〜ッと息をして「嗚呼、臭かった!」なんて言っていたものだった。
手水(ちょうず)
ポットン便所の場合、横に洗面台などない。ではどうやって手を洗ったかというと、トイレの前に奇妙なタンクが吊るされていたのだ。
タンクの底には金属製の短いパイプが出っ張っていて、それを手のひらで突き上げると水がピュンピュンと出る仕掛けになっていた。
こういう手洗い器を「手水(ちょうず)」という。下町風俗資料館の展示品はブリキで出来ていたが、私が昔見たものはプラ製だった。その他、陶製や銅製のものもあったとか。しかし、壊れやすかったため現在ではほとんど当時のものは残っていない。下水道が完備していない場所ではまだまだポットン便所が残ってはいるが、そういう場所でも浄化槽が普及し、さらに便器も洋式でウォシュレット付きのものにリフォームされていることが多いため、ポットン便所もこの手水もまず見かけなくなってしまった。戦前はポットン便所の糞尿は肥料に使われ、江戸時代は遊郭や大名屋敷の糞尿は作物の生育が良くなると珍重され、高値で取引されていたとか。ポットン便所と手水はそうした時代の名残とも言える。

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