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日韓万華鏡

バスに車掌さんがいた頃…

昔のバスには1000円札両替機なんていいものは付いてませんでしたから、人力でそれをやらなくてはなりませんでした。そのせいで、バスにも電車みたいに車掌さんがいたのです。

ギャラリー

忘れられた職業
私が子供の頃、落語やら大人たちの話に「鋳掛屋」という単語が出てくるとさっぱり分かりませんでした。
今なら、穴があいて漏れる鍋は金属ゴミの日に出しちゃいますが、昔は銀ロウやらリベットやら簡便な溶接などなどを駆使して鍋の穴をふさいでいたんですね。
そういう稼業を「鋳掛屋」と称していました。

では、私ぐらいの年代(60年代生まれ)だと分かるけど、70年代以降の人たちにはちんぷんかんぷんな商売…それはズバリ、バス車掌!
中国地方や九州地方では男性車掌の圧倒的に多い地域もあったみたいですが、大抵の場合は若い女性の方がやってました。ちょうど小湊鉄道の車掌さんとかえちぜん鉄道のアテンダントさんみたいな存在で…。

制服は大抵白い襟のついた紺の上着。トミーテック・バスコレクションのフィギュアではスカートをはいているが、それは観光路線で、ガイド兼任のような場合で、大抵は上着と揃いのズボンだった。なぜなら、彼女たちは窓ふきやバス洗車もやらされていたので、動きやすい服装が求められていたからだ。
バスに降車ボタンもなく、「おりま〜〜す!」「はい、成子坂下願います」ビッビ〜 ビッ 「お〜らぁい」なんて具合で、お客が「降りま〜す」と叫ぶと、車掌さんがブザーでドライバーに降車を知らせるという仕掛けだった。
さらには、肩から提げた大きなガマ口には切符とパンチ、釣り専用の小銭が入っていて、客席を回って、切符を切り、乗客降車時には切符を回収、2つにちぎってブリキの箱に入れていた。子供心にその切符を切る車掌さんの手付きが面白くてよく眺めていたのだった。
(写真は岩手県南バスの車掌さん。提供:板橋不二男さん)
箱型ツーマンバス
1960年代ごろからはリアエンジンバスという現在と同様の後にディーゼルエンジンを搭載したバスが普及していた。ツーマンの場合だと真ん中に乗降用のドアが1つだけあって、それを車掌さんが開けるパターンだったが、ワンマン化が進んでくると、ワンマンバスの中扉に車掌席をあらかじめ用意しておいて、車掌乗務の際には前の扉をしめ切って中扉から乗降するようにする「ワンマン・ツーマン兼用車」が広まっていった。
写真の都営バスがそのパターン。都営バスは労組が強く、「婦人部」もあった関係で、平成2年まで車掌乗務バスが存在し、最後まで残ったのは目黒駅―日本橋三越の平日路線だった。この写真は学生時代の1979年にわざわざ乗りに行って、下車時に撮影したもの。上の方の窓がHゴムで嵌め殺しになったいわゆる「バス窓」のバスでモノコックボディーの三菱車というところが時代を感じさせる。

社会人になってからも、銀座通りを歩いていて、このツーマン車を見かけると、短い区間でも乗ってしまった。
(写真のバスは三菱MR480 1967年式)

いすゞBA741富士重工ボディー(1963年式)
右のバスと同じいすゞBA741だがボディーメーカーの違いによってこのように見た目の印象が大きく異なってしまう。前面のガラスがやや傾斜し、後部の妻板がやや角ばった富士重工の車体は独特なデザインで、同じデザインでシャーシのメーカーだけ違う日野RB10バージョンもあった。この日野RB10 タイプは杉並営業所所属のものがあり、私が幼年時代、晴海埠頭-清水操車場(304系統)と東京駅南口-東伏見(300系統)に使われていて、外観はこのいすゞBA741富士重工ボディーとほぼ同じだった。それだけに見るだけで懐かしさを感じる。
(写真提供:板橋不二男さん)
いすゞBA741型川崎ボディー(1963年式)
同じいすゞBA741でも川崎ボディーだと、フロントグラスが垂直になり、後部妻板が丸みを帯びたものになる。1963年製のこれらのバスは元々はバタークリーム色の地に臙脂色のラインだったが1969年から漸次アイボリーの地に水色のラインの所謂「美濃部色」に塗り替えられていく。新宿駅西口で初めてこの美濃部色を見たときは、「え?なにあの色」と戸惑ってしまったものである。後に、この写真を都営バスファンの方に見てもらったところ、ツーマン車の写真は大抵バタークリーム色の地に臙脂色のラインなので、このツーマン車・美濃部色というのは大変珍しいカットなのだとか。
(写真提供:板橋不二男さん)
いすゞBA10型 富士重ボディー(1971年)
江ノ電バスが狭隘路線用に導入したナローバス。個人のバスファンの方が保存し、パシフィコ横浜の旧車ショーで公開した際に撮影させていただいたもの。上のいすゞBA741型と同じく富士重工製ボディーでデザインも良く似ているので、1960年代に製造された雰囲気が漂っているが、実際には1970年代に製造されたもの。4灯式ヘッドライトだけが、1970年代らしさを醸し出している。
三菱MR480 (年式不明)
静岡県大井川鉄道のツーマン車。SL列車撮影中に偶然見つけた。年式は不明だが、上の三菱MR480と同時期に製造されたツーマン専用ボディーのバスと見られる姿をしている。路線バスとしては比較的長距離を走るのだろう。中の座席が進行方向向き2人掛けの「ロマンスシート」が並んでいるのが、窓越しにみることができる。
いすゞBR20川崎ボディー
京急バス鎌倉営業所の1963年式〜1965年式と見られるもの。ワンマン・ツーマン兼用車だが、1971年〜1972年ぐらいまで金沢八景駅と鎌倉駅を結ぶ現在の鎌24系統のバスには車掌さんが乗務しており、このバスも使われていた。ツーマンの時は前扉を締切にして、中扉後の車掌が乗務する。その頃金沢八景駅から自宅近くのバス停までは大人20円、子供10円で車掌さんが切ってくれた切符に水色で10円と書いてあったのを覚えている。(写真提供:板橋不二男さん)
いすゞBU05富士重ボディー
左と同じく京急バス鎌倉営業所のバスで年式は1960年代末か70年代初頭、富士重ボディーでなおかつツーマン専用車だ。金沢八景駅-鎌倉駅のバスにはたまにこのツーマン専用車がやってくることもあった。銀色の地に水色の太帯と赤の細帯が入ったタイプは路線専用車だが、白地に赤のバスは貸切と兼用になっているタイプで座席は二人がけのロマンスシートが多かったと思う。なお、金沢八景駅-鎌倉駅がワンマン化されると途中で路地に入る大塔宮-鎌倉駅の路線でこのツーマン車をよく見かけるようになった。(写真提供:板橋不二男さん)

キャブオーバーバス
日産180型東京富士産業ボディー(1951年式)
ボンネットバスのシャーシに箱型ボディーをガポッとかぶせたような「キャブオーバーバス」。箱型バスながら、後部にエンジンがなく、運転席の横にエンジンカバーがあるのが特徴的だ。韓国ではツーマンバスというとボンネットバスは米軍払い下げの軍用トラックを改造したものを除くとあまり見られず、キャブオーバーバスばかりが目立つが、日本の場合はどちらかというと少数派である。
写真のものは東向島の東武博物館に展示されているもの。因みにこのバスの方向指示器は上のいすゞBA741 についているものと同様のもので、「アポロ」と呼ばれるもの。カーブに差し掛かると、ネクタイの下部のような形をしたオレンジ色の細長いランプが金井克子の「他人の関係」と振りつけのようにパッパパヤッパ!と飛び出るようになっているのだ。