ギャラリー
トヨタ博物館
名古屋の郊外・愛知県長久手市には1989年に開館した日本有数のクルマをテーマにした博物館「トヨタ博物館」があります。国産乗用車を豊富に展示した博物館というとこのトヨタ博物館をのぞくと石川県小松市の日本自動車博物館ぐらいしかありません。一自動車メーカーが経営している博物館なのに自社と系列企業のクルマだけに限定せず、様々なメーカーのクルマを展示しているところが凄いです。
博物館の名物はこちら!「トヨダAA型乗用車]のレプリカだ。
オリジナルは1936年に作られたトヨタ初の生産型乗用車である。昭和10年代前半は世界的に流線形ボディーが大流行!SLも流線形カバーを付けて走っている時代で現在の中国東北地方を走っていた南満州鉄道の特急アジア号の機関車も日本本土の蒸気機関車C53やC55の中にも流線形車両が登場した。このトヨダAA型乗用車の場合は流線形のクルマ「デ
ソート エアフロー シリーズ」の影響を強く受け、フロントカウルから後の姿は相当に似ている。製造は太平洋戦争中の1943年までに1404台が製造されたが、戦災や終戦直後の酷使により残念ながらオリジナル車は1950年代中に解体されてしまったようだ。そのためトヨタでは一からトヨダAA型を作ることを決め、自動車デザイナー・評論家の五十嵐平達氏の監修のもと、復元を行った。1930年代に製造されたクルマたちは現在のものとは異なり、ねじを含む設計が全てインチで行われており、なおかつ現物合わせによる調整が行われていたため、残っている設計図では組み立てられない部分もある等復元車両の製造にはかなりの困難が伴ったとか。結果できあがった車は鋼板等の材料が良くなっているせいで戦前に作られた車よりも性能がUPしていたというエピソードもある。
また、1996年のトヨタ自動車市販車両生産60周年記念では、ハイラックスを改造してこのトヨダAA型乗用車を模した姿にした「トヨタクラシック」を限定100台で生産、800万円で販売した。
1950年代のクルマ
1950年代の日本は朝鮮戦争の銃撃でハチの巣になったSLや戦車の修理を依頼されるなど、特需景気により大戦末期からの貧困からようやく立ち直ったが、豊かとは決して言えなかった。マイカーを持っているのはお金持ちだけ。
オフィスや工場で働くごく普通の庶民にとってクルマは高根の花で、足と言えば市電やバス、激しく混み合うSL列車だった。
そんな中、マイカー時代前夜の自動車メーカーは戦前の設計図で作った旧式のエンジンを用い、部品は或るものをやりくりして…と苦労しながら新時代のクルマを開発していたのだった。
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トヨペットSA型乗用車 (1951年式)
ワーゲンビートル風だが、終戦後間もない1947年にGHQから1500cc以下の小型車300台の製造を許可されたトヨタが1947年から1952年まで製造したのがこのトヨペットSA型である。販売価格は91万円。現在の貨幣価値でいえば1億円近い高いクルマだった。庶民は貧しく、個人では大富豪しか車を買えず、企業は戦争で焼け残った古いクルマをだましだまし使っている時代のこと。実際にはタクシーぐらいしか需要がなく、合計215台しか売れなかったとか。なお、トヨタが終戦後最初に売り出した車は上のトヨダAAと似た外観のトヨタAC型(戦時中にトヨダAAのクロームメッキ部品省略など工程を簡略化し、陸軍の将校用車両として生産していたもの)の残りもののパーツを組み合わせて作ったトヨタAC型だった。 |
トヨペット スーパーRHN型 (1953年式)
トヨペットスーパーは戦後タクシー用小型セダンとして1953年から1954年までのほぼ1年間にわたって製造されたもので、実際の車の製造は現在はセンチュリーやクラウン、コンフォート、カローラフィールダー等の製造を手掛ける関東自工(形式名:RHK型)と現在の三菱自動車となる中日本重工(形式名:RHN型)の2社で行っていた。トヨタ博物館の展示車両はそのうちの中日本重工製である。当時、日本の道路事情は悪く、未舗装の泥道だらけだったため、このクルマに限らず、この時代のタクシー用セダン車は頑丈一点張りのトラックタイプシャーシを使っており、乗り心地は二の次で耐久性が求められていた。また当時のタクシーは運転が乱暴なことで知られ、「神風タクシー」などと呼ばれていた。、 |
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トヨペットクラウンRS型(1955年・日本)
オーナードライバー用にトヨタが1955年に開発したクラウン。有名な「観音開き」クラウンだが、この観音開きには前期型と後期形の2種類が存在している。こちらは前期型。ラジエーターグリルが紡錘型を横に二つ並べ、真ん中がxの字になっている点と、テールフィンが無く、テールライトが水滴型でなく、小さな楕円形になっている。更に前期型の最初期はフロントウインドウが2分割式で昔のトラックのように真ん中にピラーが付いている。 |
トヨペット マスター RR型 (1955年・日本)
観音開きクラウンと同時発売されたタクシー用4ドアセダンがこちらのトヨペットマスター。クラウンと同じなのは4気筒1453cc、48馬力のエンジンだけで、ボディーのデザインも異なれば、シャーシの方もクラウンは乗用車用に乗り心地を改良したものだったが、こちらは耐久性を重視する観点からトヨペットスーパー同様トラックシャーシを改造した武骨なものを使っていた。 |
観音開きクラウン後期形
左上の観音開きクラウン前期型とはかなり雰囲気が違っているのが分かる。ラジエータグリルは富士山型になり、ウインカーがラジエーターグリルの左右モールの下に配され、ヘッドライトは半分埋め込まれて上の方が庇状になっている。テールフィンはしっかりと立っており、テールライトは水滴型。前期型よりぐっと1950年代のアメリカ車っぽいデザインに進化している。個人的にカッコいいと思うのは後期形。
なお、側面ウインカーはセンターピラーに埋め込まれている。
新館2階にに展示されているこの1959年式クラウンRS21型はフロントグラスから「空車」の赤文字が見える通り、タクシーという設定。
1959年当時タクシーはメーターはついているものの、屋根の上にはまだ行灯がなかったとか。色が社用車やお金持ちの家の運転手付き自動車のような黒塗りではなく、水色一色の配色もタクシーだからという設定。因みに筆者は1962年の日本各地の様子を伝えるカラーグラフ誌を持っているが、それだと、水色のボディーで屋根だけピンクとか黄色など2色塗りのタクシーの姿も見られる。タクシーの行灯が出現するのはこのほぼ2,3年後なのかもしれない。
ところで、このタクシーは「中形」。ルノーやダットサン、コロナは「小型」。では、「大型」は?
実は昭和30年代には米軍払い下げの大きなアメ車の4ドアセダンを使った「大型」タクシーがあった。因みに現在は「大型」というと、一般的に7人乗りジャンボタクシーと称する大柄な1BOX車を指すようだ。
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フライングフェザー (1955年・日本)
住江製作所が1950年半ばにわずか48台生産した軽自動車。タイヤはオートバイ用のもの。エンジンはダットサンの4気筒エンジンの部品を使って作った2気筒エンジン。四輪独立懸架で無駄を省いて徹底的な簡素化で軽量化を図ったクルマだったが、前輪ブレーキが無く、デザインが簡素すぎる点などで市場で高い評価が得られなかった。 |
ダットサン 112型 (1956・日本)
ダットサン110型系列セダンは日産自動車が1955年に開発したプレス鋼板製ボディーを持つ小型セダン。それ以前の車は車体の鋼板を板金工が叩いて成型していたので、プレス鋼板の車体というのは画期的だった。ダットサン110型系列セダンは110型から始まり、改良を重ね、112型、113型、114型、115型と発展し、ダットサン1000乗用車へとモデルチェンジした。 |
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トヨペット コロナ ST10型 (1957年・日本)
通称「ダルマコロナ」。1957年から1960年まで生産された初代のコロナである。トヨペットマスターは中型タクシー用セダン。当時人気があったのは小型タクシー。そこで、タクシー業界からトヨタに小型タクシー用セダンを作ってほしいという要望があり、それに応えて寄せ集め手持ちパーツで作ったのが初代コロナだった。シャシバネはクラウン。エンジンはトヨペットSA型、4枚のドアは何とトヨペットマスターだった。 |
スバル 360 K111型 (1958年・日本)
戦後の軽自動車と言えば上のフライングフェザーのように町工場が手作りで作ったような代物しかなかったが、1958年に富士重工と名前を変えた戦時中の中島飛行機が参入し、開発したもので、戦闘機メーカーらしく車両重量385キロの軽量モノコックボディーだった。エンジンはオートバイ並みの2ストローク並列2気筒でパンパラパンパラパンパラ…というチープな音が特徴的だった。 |
日産 オースチン A50型 (1959年・日本)
1955年から1960年にかけて日産が英国車・オースチンA50ケンブリッジをノックダウン生産したもの。上記のダットサン110型系列セダンより高級な中型セダンとして位置づけ、トヨペットクラウンのライバル車として中型タクシーや社用車向けに生産された。中でも生産開始当初の1955年式はほとんどパーツが英国製でシートは本革張りのセパレートシートで人気があった。とはいえ、中形車の枠限界いっぱいのサイズに作られた観音開きのクラウンに比べると後部座席が狭く、タクシー業界からは常にクラウンと比較され、評価は必ずしも芳しいとは言えなかった。 |