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日韓万華鏡

乗用車3

このページでは愛知県長久手市のトヨタ博物館に保存・展示されているヒストリックカーを紹介します。続いて1960年から1965年までのクルマたちです。

ギャラリー

1960年代のクルマ@ (1960~1965年)
1960年代に入ると日本は高度経済成長の波に乗ります。現在よりも貧富の格差は少なく、誰もが頑張れば明日はきっといいことがあるよ!…と信じられる時代でした。この右肩上がりの傾向はバブルの頃まで続きます。車体がアメ車よりコンパクトなだけで、装備の遜色はだんだんとなくなってきました。





















         ニッサン セドリック 30型 (1960年)
縦目のセドである。子供の頃見た初代日産セドリックはこれのマイナーチェンジ版の横目セドばかりだった。縦目のセドリックは1960年4月から1962年9月までの製造で1962年10月から1965年10月のモデルチェンジまで横目セドリックが製造されていた。1960年代らしいアメリカ風の優美なスタイルでフロントグラスがパノラミックウインドウになっているところが特徴的だ。オースチンに代って中型セダンの要として登場しただけによくクラウンに交じってタクシーとして活躍していた。
個人的にはセドリックはこの初代30型と1980年代初頭に活躍していた角ばったデザインの5代目・430型がカッコイイと思う。
30型のタクシーの場合黄色地に空色の帯1本をしめた「構内タクシー色」と戦時中にタクシー会社統合で出来た大和、日本交通、帝都。国際自動車の大手4社、業界の隠語で「大日本帝国」と呼ばれるタクシー会社がからし色に赤帯になる前に採用していた下半分を朱色、上半分を黄色に塗り分けたカラーがこの30型のボディーに似合っていた。また、30型も430型もワゴン車バージョンがあって、それもなかなかカッコ良かった。

ダットサン 211型 (1960年)
ダットサン110系からモデルチェンジしたダットサン1000である。1957年から製造され、このトヨタ博物館で展示されているものはブルーバードへのモデルチェンジ直前のものである。前面のフォルムがオースチンとブルーバードを折衷したような印象で、如何にも過渡期のクルマという感じである。ダットサン110系同様小型タクシー向けを意識して作られたが、開業医にも人気があり、往診に活用され、「医者のダットサン」なるあだ名をちょうだいしたとか。
トヨペット コロナ PT20型 (1960年)
ダルマコロナからモデルチェンジした2代目コロナ。1960年から1964年にかけて製造された。どことなくオペルレコードP1に似たデザインがオシャレだと当時増えつつあった女性ドライバーに人気だったとか。また、1962年に製作された「コロナ・1500デラックス」のCMは日本最初のカラーCMである。女性ドライバーに人気があるところから、1961年には早くもAT付きが登場した。「トヨグライド」と呼ばれるこのAT,現在のものとは少々異なり、ローからドライブ(セカンドからスタートするトルクコンバーター)への変速でクラッチ操作が必要なものとなっていた。
 
日野 コンテッサ 900 (1961年)
日野自動車というとトヨタグループのバス・大型トラック製造部門というイメージがあるが、実は過去に自社開発の乗用車が作られたことがある。それがイタリア語で「伯爵夫人」を意味するコンテッサ(Contessa)である。ルノー4CVのライセンス生産で得られた自動車生産技術を駆使し1961年から1965年まで製造していた。リアエンジンリアドライブで前のボンネットはトランクルームで、ラジエーターグリルとエンジンは後。後部ドア―の縁に付いたルーバーが空気取り入れ口というちょっと変わった構造になっている。1964年にはモデルチェンジ版のコンテッサ1300が発売され、こちらは1967年まで製造された。
マツダ R360クーペ KRBB型 (1961年)
それまでオート三輪トラックのメーカーだったマツダが4輪乗用車市場でデビューを飾ったクルマがこの軽自動車「R360クーペ」である。乗車定員は2名。後部座席はあるにはあるが非常に狭く、子供用の席、もしくは荷物置き場として使われた様子だ。軽量化を徹底させ、エンジンを含めアルミ合金、マグネシウム合金、プラスチックを多様。サイドウインドーとリアウインドーは慶炉床のため、アクリル製だった。軽自動車で最初にATを導入、下半身が不自由な方でも運転が出来るようになっていた。ギアのクルマは1966年に生産が終了したが、障害者向けにAT車のみ1969年まで受注生産をしていた。
パブリカ UP10型 (1961年)
1950年代の国民車高層の影響を受け、「これ以下ではムリ、これ以上はムダ」というキャッチフレーズで庶民向けのクルマとして1961年に開発されたトヨタ初のコンパクトカーでこれがのちにスターレット、ヴィッツへと進化していく。軽自動車というのはトランクスペースと後部座席スペースを犠牲にして小型化したクルマ。従って、後部座席はうんと狭いか場合によっては大人が座れない。トランクもあまり荷物が積めない。そこで後部にちゃんとしたトランクを設け、後部座席もちゃんと大人が座れるサイズにした上で最低限の装備としたのがこのパブリカである。タクシーとして使用しない前提なので、後部の窓はレギュレーターを付けず、窓の上辺に付けた蝶番で窓の下辺を押し開くようになっていた。なお、「パブリカ」という名称は公募で選ばれたもの。「パブリックカー」の略で「一般市民のクルマ」を意味する。
日野 ルノー PA62型 (1962年)
昔の古いフィルムや写真を見て「ワーゲンビートルに4ドア車ってあったっけ?」という人がいるが、ビートルに似ていて4ドアなら、これ、日野ルノーである。フランスのルノー4CVを1953年にノックダウン生産し、以降パーツをフランス直輸入から徐々に国産のものに切り替え、1958年に完全国産化を達成、1963年まで生産が続けられた。全長3630mm、全幅1430mmという寸法は後部座席が広めとはいえ、ほぼ軽自動車サイズで、当時の小型車の規定に達しないため、前後のバンパーを張り出させるという変わった措置が取られた。軽ではない4ドアセダンとして最小のクルマだったところから、小型タクシーとして良く使われた。ただし、丈夫ではなく、悪路に弱い面があったため、それがコンテッサ開発につながったのだった。
 
ダットサン ブルーバード P312型 (1963年)
1959年から1963年にかけて製造された初代日産ブルーバードである。オースチンとダットサンを折衷したようなデザインで、主要パーツはダットサントラックと共用で、1959年当初は4ドアセダンのみの発売だった。翌1960年からは日本初となるステーションワゴンがラインアップされた。同時代のトヨペットコロナに比べると耐久性に優れていたため。小型タクシー用のセダンとしてはこちらのブルーバードの方が人気が高かった。
ダットサン フェアレディ SP310型 (1963年)
フェアレディーというと有名なZカーことフェアレディーZを思い浮かべてしまうが、これはそのフェアレディーZの一つ前のモデル。1500ccの小粋なオープンカーで定員は3人。後部座席は左向きで大人が一人座れるようになっていた。なお、フレームは左のブルーバードと同じダットサントラックと共通。フェアレディーZと比べるとスピード感をあまり感じさせないデザインだが、1963年に開催された「第1回日本グランプリ」では国内スポーツカーB2クラスで優勝を飾っている。
ホンダ S500 AS280型 (1964年)
ホンダがかつて作っていた2シーターのオープンカーでS500は1963年に製造された、その翌年にはバージョンアップ版のエスロクことホンダS600が後継モデルとして発売され、1966年には更にそのバージョンアップ版のS800がリリースされた。S600とS800には屋根のついたクーペが設定されていたが、S500はオープンカーのみ。また、幌は当時日本製で良質なものがなかったため、英国から輸入したという。超小型4気筒ツインカムを搭載し、最高時速は130km/h。速くてカッコいい小型車として当時の若者のあこがれの的となった。
プリンス グロリア スーパー6 41型 (1964年)
プリンス自動車といえば、現在は日産自動車に吸収されて存在しないメーカーだが、元をただせば太平洋戦争中陸軍一式戦闘機「隼」を製造していた立川飛行機。戦後は東京電気自動車、たま自動車を経てプリンス自工となった。初代プリンスグロリアは1959年に登場した'50年代アメ車風の4ドアセダンで今上天皇が皇太子だった時代に宮内庁に納入されていた。写真のグロリアはその次の2代目グロリア。モールが車体を一周しているところから「鉢巻きグロリア」の異名がある。この2代目グロリアも宮内庁に多数納入され、各宮家でも愛用されていた。また、ホイールベースをわずかに延長した特装モデルが少数生産され、まだ皇太子だった今上天皇が私用車としてご自身で運転されていた。
 
トヨペット コロナ RT40型 (1964年)
1964年から1970年まで製造された3代目コロナで、スラントしたフロントマスクのイメージからまたの名を「バリカンコロナ」ともいう。発売の前年である1963年には名神高速道路で58日間かけて時速100キロでひたすら往復する「新型コロナ10万キロ連続走行公開テスト」を実施、性能面での信頼性をアピールした。このイベントが成功、それまで日産ブルーバードの後塵を拝していたトヨペットコロナが国内販売台数1位を獲得した。このバリカンコロナ、新進自動車(のちに大宇自動車、GM大宇を経て現在韓国GM)と提携し左ハンドルバージョンを韓国でもノックダウン生産していた。
ダイハツ コンパーノ スパイダー F40K型 (1965年)
「ベルリーナが泣いちゃうよ 」というCMソングがあったせいで幼年時代、私はこのクルマをベルリーナのオープンカーと呼んでいた。しかし、だいぶ後になって、「ベルリーナ」はセダンの名称でライトバンやワゴン、オープンカーも併せた全体的なシリーズ名は「ダイハツコンパーノ」だと知った。このコンパーノというクルマ、面白いことに1963年にライトバンが先行発売され、すぐ後を追ってワゴン車が発売。続いて2ドアセダンが出て、1965年にオープンカーと4ドアセダンが発売されている。普通なら2ドアと4ドアのセダンが最初に出てしばらくしてワゴンやバン、オープンカーが出るものだが…。
ダットサン ブルーバード 411型 (1965年)
日産ブルーバードとトヨタコロナの販売競争をBC戦争などというが、このブルーバードはバリカンコロナとの販売競争一騎打ちで破れている。ピニンファリーナによるデザインはヨーロッパ風だったが、その尻下がりのデザインが「ダックテール」と言われ不評だったからだ。また、このブルーバードはメキシコ日産のクエルナバカ工場でも生産されるなど、左ハンドルのものが海外でも活躍した。
トヨペット コロナ RT50型 (1965年)
上のバリカンコロナの2ドアハードトップ車である。そのほかバリカンコロナには5ドアハッチバック(当時は5ドアセダンを名乗っていた)、2ドアライトバン、4ドアライトバン、ピックアップトラックといったバリエーションが存在していた。ダイハツコンパーノもそうだが、この時代のクルマはフレームが独立してボディーのアレンジが容易だったため、4ドアセダンのシリーズに2ドアセダン、ハードトップ、ライトバンやピックアップトラックがラインナップされているということが割とよくあった。
トヨタ スポーツ800 UP15型 (1965年)
通称「ヨタハチ」。ホンダS500、600、800シリーズのライバルでパブリカのエンジンとシャーシを流用し、航空機並みの徹底した軽量化(車両重量580kg)と空気抵抗を減らす工夫で高性能を発揮した。最高時速は155km/h。速いが重いホンダスポーツに対し、ヨタハチはその軽さから操縦性能が良く、高燃費、タイヤの減りが少ないといった長所があった。そのため長距離レースではピットイン回数を減らしてロスタイムをなくすことで順位を上げていった。