本文へスキップ

日韓万華鏡

食堂車2
昼間特急で食堂車連結列車というと近鉄の観光特急「しまかぜ」ぐらいしかなくなってしまいましたが、かつては中長距離特急の華ともいえる存在でした。

現在では乗り物の中で食事というとLCCの有料のものやビジネスクラスの豪華なお弁当や空弁などを含めた機内食かフェリーのレストランということになるでしょうか。
食堂車と言うとJRの場合、ごく週数の富裕層を顧客とした豪華ツアー列車や「東北エモーション」のような団体客向けのレストラントレインばかりになってしまいましたが、かつての日本国有鉄道(国鉄)では中長距離特急の多くの列車に食堂車が連結されており、さらに時代をさかのぼれば、急行列車にもビュッフェや食堂車が連結されており、車窓の景色を楽しむ晩餐の場となっておりました。
そんなかつての栄華を極めた在りし日の食堂車の姿を振り返ってみましょう。

インテリア

客 車
客車の食堂は1899年に早くも山陽鉄道に登場している。現在とは異なり木造客車でなおかつ、中央に大きな食卓を置いてその両側に左右4人ずつ座るものだった。
利用できるのは1等客、つまりJRでいえばグランクラスの乗客だが、当時の1等客は庶民でも頑張れば自分へのご褒美で乗れるような代物ではなく、ごく少数の選ばれた富裕層だけのものだった。側廊下付き厨房とテーブル席で構成された食堂車のレイアウトが登場するのは1906年に官設鉄道が作った全室食堂車から。
このスタイルが平成時代まで長く続くことになる。
スシ28 301
大阪・交通科学博物館では普段は内部には入れなかったが、時間と見学者人数を決めて車両探検ツアーと題して展示され、内部見学会を実施していた。それがこの写真。革張りの椅子にニス塗りで木目の模様が美しい壁はレトロ感たっぷり。交通科学館開館当初はこの車両を博物館食堂として活用していた。
さて、この時代の食堂車はクーラーの吹き出し口がなく、天井に扇風機が並んでいることで分かるように非冷房で夏は窓を開けていた。
雑誌で見た食堂車従業員の談話によると、夏場は扇風機をガラガラと回して生温かい風ひっかきまわしていたわけだが、その扇風機の風でよくパセリやハムサラダのハムが飛ばされたようで、マヨネーズのたっぷり付いたハムサラダのハムががぴゅ~~~んと飛んでお客さんのスーツにベチョッ!とか、せっかく洗ったお皿がSLの煤で真っ黒になるといった冷房化された食堂車にはない悲喜劇があったようである。
ナシ20 8
今は解体されて存在しないがかつて北海道深川市には桜山レジャーランドSLホテルというのがあって、C58 98とオロネ10(10系A寝台車)2両と共にブルートレイン20系食堂車ナシ20 8が保存され、SLホテル食堂として使われていた。
扇風機が取り付けられたり、お土産品が飾られたり。テーブルクロスが白ではなく派手な柄物になっていたりで雰囲気は変わってしまったが、テーブルの上の臙脂色の枠が付いた半間接照明や黄色いレザー張りの椅子、壁はかつてのあさかぜ食堂車の姿そのままだった。交通科学博物館に保存され、京都鉄道博物館に移転となったものは後期形で半間接照明が省略されているが、これは前期型。
初期の20系食堂車は日本車両と日立製作所の競作で、それぞれ独自のインテリアデザインを行って妍を競っていた。因みにこちらは日本車両のデザインである。日立版は間接照明で天井中央は丸いクーラーの吹き出し口が並び、壁は木目調ではなく、明るいベージュ色でモダンな雰囲気だった。
オシ14 7
20系の時代はインテリアにものすごく手をかけていた旧日本国有鉄道。
それが同じデザインである14系・オシ14、24系・オシ24になるとデザインが簡素化され、しかも天井が寝台特急の食堂車らしくがらんと空いているせいでひどく殺風景になってしまった。
そっけないインテリアであることは国鉄内部でも問題になったのだろうか?
ブルートレインブームが下火になる1980年代半ばになると九州方面ブルートレインの一部食堂車でリフォームが行われ、星空バー風とオリエント急行風というインテリアに力を入れたものが登場した。全盛期にはビーフシチュー、ハンバーグ、カレーライスが人気メニューの御三家だったが、リフォームや名物メニュー「関門定食」の提供などの努力もむなしく利用者が減少し、1993年3月に営業を休止、東海道・山陽ブルートレインの華・食堂車は姿を消していったのだった。

特急電車
サシ181-43
181系食堂車の0番台は元ビジネス特急こだま号食堂車サシ151。40番台は元上越線特急とき専用車161系サシ161。このグループの内装はそっくり。勘定台のところには臙脂色のアクリル製でL字形の仕切り板があり、淡いクリアブルーのガラス(アクリル板?)がはめ込まれていた。壁はぱっと見、アイボリーだけど、よく見ると白地に黄色とグレーの細かいチェック柄で妙に凝っている。要所要所がどこかオシャレな感じの食堂車だった。サシ181-43は161系の増備車で1964年に落成。その時点で161系が181系40番台に形式改正していたため、納車時にはサシ181-43だったという車両だが、座席が鉄パイプとビニールレザーで出来た椅子ではなく、より近代的なFRP製の椅子に変わっていたのも関わらず、ビジネス特急こだま号食堂車の雰囲気を色濃く残していた。
サシ181-101
1976年~79年頃の新潟運転所上沼垂運転支所所属の特急とき用編成食堂車の中に1両だけ1968年製の181系100番台車の食堂車「サシ181-101」が交じっていた。外観ではサシ181-0番台、40番台とは異なり台車がかつての151系のかTR58とは異なり、改良型のTR69を履いていた。内装は壁もアイボリーではなく茶色。カーテンは廃止され、代わりにペアガラスの間にブラインドをはさむベネシアンブラインドが採用されていた。
勘定台の飾りが山の道しるべのデザイン。勘定台とは反対側の食堂入口ドアの右脇には山のレリーフが飾ってあった。
元々この100番台食堂車というのは特急あずさ用に開発されたもので、インテリアが山小屋をイメージしたのだったのだった。
サシ481-13
1965年製の485系食堂車である。サシ181と大きく異なるは天井板が青く塗装されている点、勘定台の仕切りが簡素化されている点、床が485系に合わせて181系より125mm高くなっている点などが挙げられる。上野と仙台を結ぶ特急ひばり号は上野で折り返すとき山形行きのやまばとや会津若松行きのあいづ、常磐線経由陸前原ノ町行きか仙台行きのひたちなら食堂車を営業していたが、平行きのひたちの場合だと食堂車は非営業。乗務員の休憩場所にされていることがよくあった。
サシ481-16
1968年製の485系食堂車。サシ181や左のサシ481-1~14と同じくきのこ型クーラーAU12を装備している点は全く変わらないが、窓のカーテンがサシ181-100番台同様に廃止されてペアガラスの間にブラインドを挿入したベネシアンブラインドに変更されている点が大きく異なる。1972年製造の39番まで続き、40番台以降はクーラーが箱型のAU13に変更され、クーラーの吹き出し口のデザインが大きく変わる。
サシ489-2室内
信越本線経由上野-金沢特急白山は途中66.7‰の急勾配である碓井峠を通過するため、補機を連結した際にモーターを停止させず、補機と列車双方のモーターで急勾配を登る「協調運転」を行う車両489系が運行されていた。従って食堂車はサシ481ではなくサシ489。サシ489-1~4はサシ481-15~39と同一デザインでAU12きのこ型クーラーとベネシアンブラインドを装備していた。
サシ489-101室内
2つ上のサシ181-101とそっくりのインテリアだとは感じないだろうか?それもそのはず。元はサシ181-102で同型だったのだから。サシ181-100番台は101から103までの3両が製造されたのだが、余剰気味の102と103を食堂車の不足気味な金沢運転所に転属。489系の編成に組み込むため、床の位置を125mmかさ上げして489系用食堂車に改造したものだった。
サシ583-33室内
寝台特急と共通運用で24時間働けるまるでブラック企業の社員のような過酷な運用に耐えていた寝台電車581系&583系。581系は南福岡電車区(現・南福岡車両区)や向日町運転所(現・吹田総合車両所京都支所)に配属された直流・交流60Hz兼用車で、東北本線用は直流・交流50Hz・60Hz兼用車の583系。食堂車は両社共通でサシ581となった。
寝台特急の食堂車らしく、天井が高く、建築限界の関係からクーラーが小型のAU15形となりクーラー吹き出し口の形状もサシ481とは大きく異なる。高い天井を殺風景なものとせず開放感を出すため、壁の上の方には黄色いラインも入っていた。勘定台側の写真は出発準備中のもの、そして食堂車入口付近の写真は特急みちのく号(常磐線経由上野-青森)として営業中のもの。
新幹線食堂車
35-1
大阪交通科学博物館に展示されていた1964年製の0系新幹線1号のビュッフェ車。東京-新大阪3時間10分の所要時間では本格的な食堂車は不用であろうという判断から半室ビュッフェとなった。向かって左半分がカウンター付き厨房、右には窓に沿って展望カウンター席が設けられ、展望カウンター席には回転椅子があった。初めて私が新幹線に乗ったのは幼稚園の年長さんだった1968年のこと。このビュッフェの回転椅子で父に海老フライ定食を御馳走になった。座ると左右にツイストするので、この椅子を私は「ゴーゴー椅子」と呼んでいた。35形ビュッフェ車は記念すべき私の食堂車初体験でもある。そのことを記念し、父が亡くなってからはお盆の度に御馳走になった海老フライをお供えしている。
36-84
リニア鉄道館に展示中の0系新幹線全室食堂車。
山陽新幹線博多開業が目前となった1974年、東京-博多の長距離を結ぶ列車だからということで登場した。通り抜け用通路は4人席の外にある。当初、4人席の横は壁だった。
しかし、富士山が見えないという乗客からのクレームがあり、1979年以降窓が追加された。テーブルは山側は4人席、海側には2人席で、勘定台から一番遠い席は仕切りが設けられたソファー席で定員は42名。椅子はパイプ椅子ではなく、バケット風の深く座れるタイプ。照明は間接照明と白熱灯スポット照明でホテルのレストランのような高級感あふれる空間となっていた。
168
昭和末期になると新幹線0系が100系にモデルチェンジされ、最高速度も210km/hから220km/hに引き上げられた。このとき登場したのが168形2階建て食堂車である。
厨房と渡り廊下を1階に、44席の客席を2階に配し、1階の厨房で出来た料理は専用エレベーターで2階に上げるという構造になっていた。
日韓共同きっぷを使ってソウルから横浜の自宅に帰省するとき、セマウル号とこの100系新幹線を使った。博多から東京まで6時間弱という所要時間。食事とおやつのケーキセット、2回この食堂車に足を運んだのは懐かしい思い出である。この想い出深い100系食堂車も2000年に営業を終了、姿を消してしまった。

特急気動車
キシ80-23
かつての北海道は食堂車付き80系特急形気動車の独壇場だった。キシ80は1961年から1967年にかけて37両製造されたが、本州の特急の食堂車座席がFRP製ばかりなのに対し、北海道のキシ80はビジネス特急こだま号を彷彿とさせる鉄パイプにレザー張り。レザーの色はサシ181の古い車両の朱色に対し、アイボリー色だった。勘定台回りはサシ481に似ているが全体的に古風な印象を受けた。
キサシ181-11
伯備線が電化される前の特急やくも(岡山〜米子・松江・出雲市)は食堂車付きキハ181系気動車が運行される路線。食堂車はキサシ180である。椅子や壁の感じ、ベネシアンブラインドを装備したその姿はまるで低屋根化したオシ14である。ただ、オシ14より天井が低い分、殺風景にはならず都会的でドライな感じのインテリアになっていた。

急行ビュッフェ
サハシ455-21
営業を終了し、車販準備室になっていたころの姿。基本的なレイアウトは寿司ビュッフェがあったサハシ153と変わりがない。サハシ153、サハシ165、サハシ451などの他の急行ビュッフェとことなる点は窓際カウンター席にFRP製回転椅子が設けられたこと。
それ以外はほぼ同じスタイルである。
寿司ビュッフェ以外はそばかうどんのビュッフェだったわけだが、メニューはどんな感じかというと天ぷらそば、かしわ南蛮、月見そば、たぬきそば、きつねそば、ざるそば、もりそば、かけそば、カレーライス、チキンライス、ハンバーグ、うなぎご飯…と駅の立ち食いそば屋をちょっと豪華にしたような様子だった。
ぷらっとこだまの車内販売すらない惨状を見るにつけ、こういうビュッフェがあればなぁ…とついつい思ってしまう。