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日韓万華鏡

急行形・近郊形電車/気動車

電車や気動車でボックス席のある車両…それは急行形か近郊形です。両端でデッキがあって客室が全部ボックス席で旧型客車の普通車のような作りならそれは急行形。車体の壁と平行になった長椅子(ロングシート)が混在していたら近郊形です。

ギャラリー

直流急行形電車
153系
 急行形電車の原型となったのは戦後まだ間もない1949年に開発された湘南電車こと80系電車である。急行電車というと正直あまり乗り心地が良くなく、快適でなかった記憶しかない。直角に屹立した背もたれに硬めのシート。
線路の向きと直角に座るので専門的には「クロスシート」というが、ボックスシートとかボックス席と言った方が普通の人には分かりやすいと思う。
座席の半数は進行方向と逆向きでその通路側など、乗り物酔いしやすかった幼年時代の私にとって罰ゲームでしかなかった。急行電車ボックスシートの原型は勿論昔の旧型客車。座り心地のよさより、多くの人が着席できるよう配慮されたシートだった。
その旧型客車を範として、車両の両端をデッキとし、間をボックスシートがずらりと並ぶ電車を作って電化区間を電気機関車牽引列車の代りに走らせようとして企画されたものが80系電車。
モーターが車軸と台車枠に吊り掛けられたいわゆる吊り掛け駆動方式」の「旧性能電車」は騒音が大きく乗り心地が悪い。
そこでモーターをバネ上に配置し、モーターの回転軸を中空とし、それをたわみ継ぎ手で歯車の付いたカルダン軸につなぎ、カルダン軸の歯車から車軸の歯車を動かす「中空軸平行カルダン駆動方式」が採り入れられた「新性能電車」に80系電車をバージョンアップしたものが企画された。
最初の新性能急行形電車153系はまず準急として1958年11月から「東海」(東京-名古屋、大垣)、「比叡」(名古屋-大阪)に導入された。
グリーン車の前身となる2等車はこのときはリクライニングシートではなく、東海道線の鈍行列車で以前よく見かけた2人掛けの転換クロスシート(特急の普通車座席とほぼ同じ)を配したサロ153だった。
1960年にはその準急編成が新たに登場した電車急行「せっつ」(東京-大阪)に充当され、1961年には2等車や食堂車の連結されている客車急行と遜色がないようにリクライニングシートのグリーン車「サロ152」とビュッフェ車サハシ153が登場。この年、「なにわ」、「せっつ」、「いこま」、「よど」、「やましろ」、「六甲」の「東海道電車急行六人衆」と呼ばれる電車急行が出そろい、電車急行黄金時代を迎えた。
このときのビュッフェが今や伝説となった寿司ビュッフェ!
走る急行電車の中でなんと立ち食い寿司店を開業していた。
残念ながら私はこの寿司列車には乗れなかった。
実際に子供のころに乗った方によると「大人のお尻ばかりを見てお寿司を食べた」そうである。

実際には諸事情から実現は難しかったかもしれないが、この寿司列車、出来ればリゾート急行の伊豆号(東京-伊豆急下田/修善寺)で運行してほしかった。
この1961年には伊豆急行に幻の私鉄食堂車「スコールカー」が登場していた。
旧国鉄は国鉄側が伊豆急に乗り入れさせる食堂車・ビュッフェを用意できないという理由で伊豆急のスコールカー乗り入れを断っている。
ここで料理-日本食堂、酒類を含むドリンク提供をサントリー(スコールカーはサントリーがスポンサーだった)が担当し、「寿司列車&スナック列車」と題して、スコールカーと寿司ビュッフェの相互乗り入れをしていてくれたらなぁ…と思った次第。
スーパービュー踊り子号のグリーン車の1階にはラウンジと称するグリーン車用ビュッフェが存在する。
もし、「寿司列車&スナック列車」を実現していてくれたなら、伊豆行きのリゾート列車に食堂車かビュッフェをつける習慣が生まれ、小田急ロマンスカーの走る喫茶室並の魅力的な列車に成長していたのではないか!?…と今でも思っている。

なお、背もたれ直角の座席は乗り心地が悪いと書いたが、その辺が後々急行衰退の原因の一つともなったようだ。

急行電車は1970年代にカッキリ発車、数自慢のL特急が登場すると庶民の生活向上と相まってちょっと高いけど快適だからとみんなが特急を利用するようになり、食堂車・ビュッフェの中核が急行列車ではなく特急列車に移ると急行は特急列車の補完列車と化し、ヘッドマークがなくなり、ビュッフェがなくなりやがて特急列車に格上げされるか、急行料金がいらず、鈍行と同料金の快速列車に格下げされ、姿を消していった。
根府川橋梁を行く急行東海(東京-静岡)。この先頭車がクハ153-0番台。0番台は低運転台車といって運転席の位置が低いことが前面のガラスが大きいことで見てとれる。


























同じ根府川橋梁を行く別の急行東海。こちらの先頭車両はクハ153−500番台。上の写真と見比べると運転席の窓が若干細くなっていることが分かるだろうか?

クハ153 500番台
低運転台車のクハ153 0番台には運転席で立ち上がると前方の信号機が見難く、衝突事故があったとき運転席が危ないという欠点があった。実際に1959年には衝突事故も起こしている。
更に当時の大阪鉄道管理局の内部規定には「注意信号現示の際は運転席から立ち上がって信号歓呼する」なんてルールがあったので、立つと信号が見難くなる運転席は当然運転士の間で評判はよろしくない。
そこで1961年にリクライニングシート付き2等車と寿司ビュッフェを作る際に一緒に製造された制御車から運転席位置を30cmかさ上げしたのだった。
それがこのクハ153 500番台である。
このデザインは評判がよく、のちの他の急行電車だけでなく鈍行用の近郊形電車もこの顔つきで製造されている。
165系
153系は直流電化された平坦な幹線区間向けの急行形電車。それだけに山岳路線だとパワー不足。そこで当初モーターだけをパワーアップした163系電車が計画されたが、地方幹線用にクモハ−モハ−クハの3両を一組として分割併合が出来るローカル急行用の165系を作って全部それで賄おうということになり、163系はグリーン車7両だけを製造、165系は1962年から1970年にかけてクモハ165、モハ164、モハ165、クハ165、サロ165、サハ165、サハ164、サハシ165といった形式が製造された。
1997年9月30日に廃止された信越本線横川-軽井沢の碓氷峠区間は66.7‰の急勾配で、そのまま補機を連結するとモーターやブレーキが使えなくなり、機関車の押す力だけで山を登ることになるので8両編成までという制限があった。
そこで補機を連結したとき、補機の側でブレーキやモーターをコントロールし、補機と押される電車の側双方のモーターとブレーキを作動させて山を登る「協調運転」が出来る車両が必要となり、協調運転用の機器を積んだ車両を1968年に製造しており、この協調運転用機器追加バージョンは169系と別の形式番号を持つようになった。

また、165系・169系のビュッフェは東海道本線の寿司列車は寿司職人が食堂車運営会社である日本食堂と新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)に所属しているのではなく、寿司職人の組合からの派遣社員でしかもギャラが高く、寿司職人の補充が追いつかなかったため、食堂運営会社社員だけで対応可能なようにそば、うどん、丼物を提供していた。
クハ165-1
1962年に製造された165系の制御車。写真は1978年頃上野駅で撮影撮影した急行佐渡。特急ときの補完列車だが1960年代はヘッドマークを掲げ、ビュッフェも営業していたがビュッフェは1973年に廃止。ビュッフェ営業自体は1976年に中央本線急行・アルプス号のビュッフェ廃止を最後に全廃となった。ヘッドマークの方も1970年代にいつの間にか姿を消してしまった。
1996年3月16日朝の名古屋駅停車中の最後の大垣夜行375M
最晩年の165系は一部の車両は老朽化の進んだ153系の置換えなどで大垣区や神領区などに転属していた。大垣夜行や急行東海もかつては153系で運行されていたが、徐々に165系に置き換えられ、1983年には完全に153系が淘汰されていた。最晩年の165系はヘッドライトが左の写真のような大型ヘッドライトからシールドビームに交換されていた。
修学旅行用電車
クハ167-5
修学旅行用電車そのものは関東地方の中学生が京都へ、近畿地方の中学生が東京に修学旅行に行くための足として1959年に153系(先頭車はクハ153-0番台)をベースに製造された。外見上は一番上の写真にある153系を低屋根化した感じで、色は東京と京阪神の中学校から公募、大阪の放出(はなてん)中学校の提案が採用され、左のような朱色と黄色の塗り分けとなった。
品川から京都へ向かう列車は関東地方の中学生を乗せた「ひので号」、神戸・大阪・京都から品川に向かう列車は「きぼう号」と命名され、いずれも行きは昼行列車、帰りは夜行列車のダイヤで運行された。
1971年には関東地方の中学生の修学旅行は新幹線利用に変更され、ひので号155系はお役御免となり、普通の団体輸送や臨時急行列車へと転用された。
しかし、私は1974年にひので号に乗ったことがある。なんと小学校修学旅行の団体列車として横浜から日光まで運転されたのだった。
このひので号、見た目はたんなる色違いの急行列車にしか見えなかったが、乗ってびっくり。まずボックス席が後のドアから入ってデッキのドアを開けると左側に4人用のボックスシートがズラリ、右側に6人用のボックスシートがズラリ。つまり5列シートなのだ。普通なら4列なのに。それだけではない。網棚は153系なら壁と平行になが〜〜く作られているが、この155系は壁と直角でなんと座席の真上に網棚がある。
その上、折り畳み式のテーブルもある。
私たち悪ガキ連はこのテーブルをトランプやはがき大のパチンコ台などのミニゲームで遊ぶためのゲーム台としてしっかり使わせてもらった。

この修学旅行用電車は好評で名古屋地区と下関地区にも導入された。
名古屋地区のものは東京と同様に153系低運転台車をベースにしたが、座席は153系と同じ一般的な4人掛けボックス席の急行電車の座席を使用。塗色はひので号と同じ朱色と黄色の塗り分けとなった。
大垣から品川までの「こまどり号」、中京地区と山陽地区を結ぶ「わかあゆ」として運行された。
一方、山口・広島両県の修学旅行用電車は左の写真の167系電車。
153系ではなく165系がベースになっており、小学生向けには下関-広島間の「なかよし」、中学生向けには下関-京都間の「友情」、高校生向けには下関-品川間の「わこうど」が運行された。

交直流急行形電車
1961年に東北本線の電化は上野から仙台にまで及び、1963年には大阪から金沢までの区間の電化が完成したことでそれまで客車や気動車ばかりだった東北本線や北陸本線の急行を動力近代化で電車列車にしようという機運が盛り上がっていった。そうしたなかで153系に交流機器を搭載し交直流電車化した急行形電車が1962年に開発された。
上野-仙台区間に導入するものは黒磯以北が2万ボルト・50Hz交流電化であるため直流/交流50Hz 両用型の451系、大阪-金沢に導入されるものは敦賀から東が2万ボルト・60Hz交流電化であるため直流/交流50Hz 両用型の471系と形式が分けられた。
1963年にはモーターをパワーアップした50Hzの453系、60Hz の473系が製造され、1964年に165系に交流機器を追加した50Hzの455系、60Hz の475系が製造された。
そして、特急電車でいえば485系に相当する50Hz/60Hz 両用型は1969年から1971年にかけて457系として製造された。
クハ(先頭付随車)、サロ(グリーン車)、サハシ(ビュッフェ車)は451系、453系、471系、473系は451系のものに統一され、455系、475系、457系は455系のものに統一されていた。
なお、カラーリングは153系、165系がベースにはなっているが、あずき色とクリーム色の塗り分けの交直流急行電車色という独自のものになった。
また、交流電化区間は対経済効果の関係でホームのかさ上げが見送られ、客車列車時代同様の低いままだったため、デッキにステップが設置された。
クハ455-37
上野駅に現れた1103M急行 まつしま3号。クモハ・モハユニットを数多く製造した急行形電車は複数の急行列車を併結したものが運行されており、この上野-仙台間の急行「まつしま3号」は上野-会津若松間の急行「ばんだい3号」を併結、郡山で切り離していた。
クハ455-26
博多駅で1980年8月に撮影したもの。この列車は回送列車だが、この頃の博多駅には「かいもん」(博多-西鹿児島)、ぎんなん(博多―熊本)、ゆのか(博多-大分)等の電車急行が発着していた。
急行形電車の室内
サハ164室内
写真は中央線急行「アルプス」向けに製造された売店車の客席部分だが、急行列車の普通車は直流電車、交直流電車、気動車とも同じスタイルである。ボックス席の座席幅は1095mm。近郊形電車や修学旅行等電車の4人ボックス席の座席幅は925mm。急行のボックス席はちょっとだけゆとりがあった。
サロ165-49室内
急行グリーン車の内装。リクライニングシートは特急用のものと変わりないが、窓が2個ユニットの大型バランサー付き下降窓になっていた。
なお、リクライニングシートではないグリーン車サロ153はこのタイプのグリーン車の登場で普通列車用に格下げされていった。
サハシ165-2室内
急行ビュッフェは1972年に岡山-下関の寿司ビュッフェ廃止、1973年に山陽、九州、東北のそばビュッフェ廃止、1976年に最後に残った中央本線アルプス号のビュッフェが廃止となり。私が上野駅のホームで列車を撮影していたころは急行ビュッフェはいずれも非営業となっていた。