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日韓万華鏡

急行形・近郊形電車/気動車

近郊形電車のボックス席は急行形電車より17cm狭い!一人当たりだと8.5cm分窮屈なわけです。その分通路が広い。立つ人のスペースを考えた結果です。

ギャラリー

直流近郊形電車
111系&113系
旧型国電の70系と80系が同じような顔立ちをしていたのと同様、近郊形電車も急行形電車と共通の前頭形状となっていた。
ただ、最初の近郊形電車は直流車ではなく交直流電車だった。
戦前は急行形とか近郊形という区分がなかった。そもそも電車は乗り心地が悪く、中・長距離の列車は客車列車で運行するのが常識。電車は通勤用のロングシート車(壁と平行に配置された長椅子の車両)か今でいう近郊形電車とほぼ同じ座席配置のものばかりで、急行形に近かったのは京阪神を走った2扉の電車でこうしたボックス席を持った車両は郊外電車という位置付けだった。
通勤用にしても4扉車が出てきたのは戦時中の輸送力増強でモハ63形が登場したからであって、それ以前のものは3扉ロングシートで今の東海道線の中距離電車みたいなレイアウトになっていた。
さて、111系が登場したのは1962年のこと。旧性能電車で加減速性能が悪く、153系急行電車のような座席配置であるため、東海道線の中距離電車は乗降に時間がかかり、定員も少なめ。立席も勿論少ないため、電車が遅れがちになっていたので、それを一気に解消しようと計画された。
塗色は湘南電車80系を踏襲。153系で実用化された裾を絞った車体断面を取り入れることで室内を広めにし、ドアは幅130cmの広い両開きドアにして収容力をアップ。
台車も乗り心地の面で劣る板ばねをやめてコイルスプリングに変更している。
内装は前年の1961年に常磐線に導入された401系のものと同じ。前面形状はクハ153 500番のものと同じになった。
1963年からはモーターをパワーアップした113系が製造され始めたが、先頭車の形式はそのままクハ111だった。
グリーン車はオリジナルのサロ111の他、153系のグリーン車を格下げしたサロ110、サロ112などがあったが、サロ112だけがリクライニングシートでサロ110と111は特急普通車並みの転換クロスシートだった。
ついでに言うと、今の鈍行でもそうなのだが、神奈川県西部とか房総、群馬、栃木などの首都圏郊外地域にちょっとした旅行に出かけるときは鈍行グリーン車はのんびりできて長時間停車を上手く利用すると駅便も買えるし、手軽な小旅行に利用すると快適だ。ラッシュ時さえ避ければ座れるし、予約もいらないところが嬉しい。
クハ111-1
現在は名古屋のリニア鉄道館で屋内保存されているが、かつては飯田線沿線の佐久間レールパークに展示されていた1962年製のクハ111形のトップナンバー。現役時代は東海道線の東京-静岡区間の中距離鈍行列車でよく見かけた。
この東海道本線中距離電車用クハ111形も194番以降のものと524番以降のものはヘッドライトがシールドビーム化されて表情が一変してしまった。
因みに初期の111系ではクハがサハの代用として中間に入ることを考慮し、運転助士側の仕切り板を大きく開いて乗客に開放できるように作ってあった。
クハ111-1316
横須賀線と総武線が地下東京駅でつながって一本化された1972年に先立ち1969年の千倉-木更津電化時から地下区間を走らせられる不燃化(A-A基準)対策車両が1000番台として登場したが、それらのフロントマスクはヘッドライトはシールドビームでタイフォンは貫通扉下部両脇という変な位置に来ているし、今までのクハ111形を見慣れた目には違和感満載の外観だった。ところが1000番台なのに写真の1316と1310は大型ヘッドライトで昔の横須賀線の姿そのままだった。あとで分かったことだが不燃化対策車両でもATC機器を搭載していない車両の中に昔ながらのデザインのものがあったのだった。
115系

























渋川付近を走る高崎線の115系。1980年代初頭は大型ヘッドライトの先頭車がまだまだ第一線で活躍していたが、一方、非冷房車両も少なくなかった。よく見ると7両編成のうち前3両にはクーラーがない。

クハ115-102
新前橋電車区(現・高崎車両センター)所属の高崎線直通中距離電車を特急とき撮影の合間に撮ってみた。
115系は東北本線の黒磯以南や日光線、高崎線、上越線など同じ直流区間の寒冷、積雪、勾配区間で使用するため、113系と同様の111系よりパワーアップされたモーターを使用するだけでなく、床下機器やジャンパ連結器、タイフォンなどにカバーやヒーターを取り付けた耐寒耐雪構造を施し、ドアも雪国の駅で開けっぱなしだと寒いということで、乗客が乗降の際に手でドアを開けられる「半自動化」扉となっている。
よく北関東で「電車のドアが自動で開かない、手で開ける」などというが、それは寒さ対策で半自動化ドアとなっているからに他ならない。
また、115系は中央東線中距離電車でも採用されており、中央線用はトンネルの建築限界が狭いところから、パンタグラフ周りだけ屋根を低くした「低屋根」車両となっている。
交直流近郊形電車
近郊形電車の元祖は実はこちら。常磐線と鹿児島本線の電化に合わせて1960年に開発された。当時の最新鋭技術であるシリコン整流器を搭載し、走りながら直流と交流の切り替えが出来、戦前の郊外路線向けのボックス席とロングシートが混在する電車と類似した座席配置ながら、両開き3扉となっているなど、その後の近郊形電車の原型となった当時としては画期的な電車だった。
クハ401-1〜22
1960〜1961年に製造された401系・403系の制御車。写真は1978年頃上野駅で常磐線特急ひたちを撮影する合間に撮影したもの。クハ153 0番台と同じマスクの低運転台車。九州でもほぼ同形の近郊形電車が活躍しているが、そちらは交流60Hz向けの421系・423系である。
クハ401-23〜46
1962年から1965年までの間に製造された401系・403系の制御車はクハ153-500番台とほぼ同じマスクで高運転台車になっている。さらに1966~1967年製造分については屋根上のベンチレターのうち一番前だけが運転室の通風をよくするため箱型の大型押し込み式ベンチレターに変更されている。

クハ111の車内
現役時代のクハ111の車内の様子だが、クハ115もクハ401もレイアウトは同じ。
ボックス席は急行形電車よりも狭いがそれは吊皮があることで分かるように立席客のスペースを確保するため。
天井にはカバーをかけられた扇風機が見えるが、クーラーが普及するのは1970年代半ばぐらいからで、かつては夏場になると窓は全開。扇風機がガラガラと車内の生温かい空気をひっ掻きまわしていた。