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日韓万華鏡

トラック・商用車

ここでは中・大型トラック、小型や軽のトラック・バンの商用車、オート3輪など昭和を生きた4輪と3輪のトラック・バンを紹介します。

ギャラリー

軽トラック・バン

























マツダB360軽ライトバン(1965年)
通称Bバン。このBバンの他に、トラックバージョンもあった。定員2名で350kg積み。
オート三輪の「K360」の後から発売となったが、K360」は発売中止とならず、併売されていた。エンジンはサイクル水冷4気筒で静か。この時代の軽自動車は空冷2サイクルエンジンが普通。パンパラパンパラと安っぽい音を立て、エクゾーストパイプからもうもうと白煙を噴き上げてよたよた坂道を登るのが普通だった。変速機はATはなし。4足フロアシフトのみ。
当時空冷2サイクルエンジンではない軽自動車はこれを除くとあとはマツダキャロル(エンジンが共通)とホンダN360しかなかった。
ただし、最高出力は20馬力しかなかったため、出だしは非常に遅く、シフトチェンジの際、各ギアには1速は15Km/h、2速25Km/h、3速40Km/hと各ギアごとにリミットの速度があり、ローはダブルクラッチでサードでめいいっぱい引っ張るなど、それなりに運転テクニックが必要だったとか。因みに仕様書に書かれた最高時速は67km/hと遅く、高速道路には乗れそうにないクルマだった。
(所蔵:レトロぶーぶ館)
スバルサンバートラック (1961年)
「サンバー」とはインドから東南アジア、中国南部にかけて生息するシカの一種「水鹿」のこと。富士重工のスバルブランドの中で最も歴史があり、2012年以降はダイハツハイゼットのOEM供給となったが、今でも続く日本車の中で7番目に古い商標である。写真のスバルサンバートラックは1961年から1966年にかけて生産された初代サンバー。右のくろがね・ベビーと同様のボンネットのないキャブオーバー車にしただけでなく、トラックながら、リアエンジン・4輪独立懸架。乗り心地が良いだけでなく、豆腐の角が崩れない、板硝子が割れないとユーザーの商店主たちから好評だった。リアエンジン車だけに荷台が不思議な格好をしていて、中央部が低く、後部が1段高くなっていた。商店街でも愛用されたが、自治体でも愛用されていたと思う。幼年時代の記憶で、このサンバートラックに大きな噴霧器を積み、下水のマンホールを開けてDDTらしき農薬を大量に噴射し、消毒しているのを見たことがある。DDTをぶちまける下水道とはどれだけ汚染されているんだ?…とも思うがその後そういう消毒を見た経験はない。
旧車ショー「ノスタルジック2デイズ」から
車東急くろがね工業・くろがね・ベビー(1961年)
今は亡き自動車メーカー「東急くろがね工業」が開発した日本初のリアエンジン式キャブオーバー軽トラックである。1959年に開発されたが、同じようなデザインで同じリアエンジン式キャブオーバー型軽トラックである左のスバルサンバートラックが発売されると営業力の無さが災いし、売れ行きが伸びず、1962年1月に会社が倒産、幻のクルマとなった。この東急くろがね工業の前身は戦時中に帝国陸軍向け4WD乗用車「くろがね4起」を製造した日本内燃機製造と戦前の代表的な小型車メーカーであるオオタ自動車である。東急くろがね工業は倒産後、再建され、日産自動車グループのエンジン製作会社「日産工機」となった。
4輪独立懸架はスバルサンバーと同じだが、18馬力の水冷2気筒4サイクルエンジンを搭載しているところがスバルサンバーとは大きく異なる。定員は2名、最大積載領は350kg。バリエーションとして荷台の1段へこんでいるところに座席を設け、座席の左右をドアとし、上に幌をかぶせた4人乗りのキャンバスワゴンがあった。最高速度は65km/h。
(所蔵:レトロぶーぶ館)
 
マツダポーター(1971年)
上のB360をモデルチェンジして登場したもので、1968年から1976年にかけて発売された。エンジンは当初4ストローク4気筒OHVだったが、1973年にシャンテに搭載していた2ストローク2気筒に変更となり、併せてリアランプの形状などが変更された。1969年からはこのボンネットトラックと並行して、新設計のキャブオーバータイプの軽トラック「ポーターキャブ」も発売された。このポーターキャブは1989年まで販売され、後継モデルはスズキ・キャリィのOEM供給を受けたマツダ・スクラムとなった。
(所蔵:レトロぶーぶ館)
スズキキャリィバン(1964年)
テントウムシことスバル360や上のスバルサンバートラックなどの成功で軽自動車市場はどんどん拡大していった。このスズキキャリィは1961年にまず、トラックバージョンが「スズライトキャリィ」という名称で登場。出力、加速、頑丈さなどで 好評だったところから、1964年にこのライトバンバージョンが発売された。このバンタイプのキャリィが現在のエブリィに発展していった。エブリィは1991年から2003年にかけて、韓国GM(当時は大宇国民車)ノックダウン生産されている。
(所蔵:トヨタ博物館)


オート3輪
マツダ・T1500
マツダは1957年10月にシート下エンジン、コラムシフト、定員3名で丸ハンドルと曲面ガラスを使ったパノラミックウインドウを持つ2トン積みオート三輪HBRを発表した。それ以前のオート3輪はバーハンドルでバイクを3輪にしたトライクのようなもので、ちょうど映画「となりのトトロ」でサツキとメイが文化住宅に引っ越してくるシーンで出てきた3輪トラックのような感じだったので、これは画期的なことだった。当初は空冷式2気筒エンジンだったが、1959年に水冷4気筒エンジンにモデルチェンジし、名称もT1100となった。1962年にはUA型・1484ccエンジンに置き換えて排気量を拡大、T1500 となり、併せて2000ccのエンジンも用意され、そちらはT2000となった。全長6.08mで最小回転半径5.93mと小回りが利くため人気のあったT2000は1974年に生産中止となるまで10年以上も生産され、オート3輪の中では日本で最後まで生き残った。中でも白眉の存在は小型車枠なのに4m超の荷台を持つロングボディーのものが作られたことである。このロングボディー車は材木業者に重宝された。私の子供のころの記憶では近くの八百屋が仕入用にこのマツダのTシリーズのオート三輪を使っていた。荷台にミカン箱やキャベツ、キューリなどの野菜の段ボール箱を満載した姿は今でもよく思えている。
写真左: 旧車ショー「ノスタルジック2デイズ」に展示中のT1500 、写真右:レトロぶーぶ館に展示されている日通トラック色のT1500。
マツダK360 (1959年)
通称「けさぶろう」。タイハツミゼットがフルモデルチェンジをして2代目ミゼットMP型の発売にぶつけるようにして登場した。明るいツートンカラーにスタイリッシュなデザイン、4サイクルエンジンを採用したことにより、ミゼットより静寂。車高、シート、エンジンを低くすることで重心を下げ、悪路でも安定した走り見せるようにしてある。定員2名、最大積載量300kg。最高スピードでは右のレオに劣るが、1960年代半ばごろからの軽4輪の普及に伴い1969年に製造を中止するまで10年にわたって生産が続けられたロングセラーだった。
けさぶろうは韓国でも起亜自動車がノックダウン生産していたため、韓国には左ハンドル版が存在する(下の写真参照)。また、ミャンマーには1960年代に輸出され、その後1990年代半ばまで現地生産された。

(上記K360 所蔵:レトロぶーぶ館)
三菱3輪ペット レオ(1959年)
発売当時はやっていた手塚治虫のマンガ「ジャングル大帝レオ」に因んで命名された三菱3輪ペットレオ。前から見た表情はロボットにも河童にも見え、どことなくユーモラスでマンガチックだ。当時は新三菱重工業水島製作所だった三菱自動車が最後発で軽のオート三輪製造に乗り出して誕生したのがこのレオである。それまで三菱は戦時中の戦闘機製造の技術を応用し、オート三輪「みずしま」を製造していたが、小さいながらその集大成ともいえるクルマだった。当時の軽オート三輪の中では最も速い最高時速72km/hを誇っており、1960年代初頭の他の4輪軽トラックよりも速いという高性能ぶり。 オールスチール製の全天候型キャビンを採用しており、ボディーもピックアップ、ライトバン、キャンバスバン(幌付トラック)を当初からラインナップしていた。低価格で高性能なところから人気があり1961年には14000台も生産されたが、翌1962年、三菱は4輪車生産に集中するため製造を中止、オート三輪市場から撤退してしまった。(所蔵:レトロぶーぶ館)



ダイハツ ミゼット
ダイハツは戦前からオート三輪を作り続けたメーカーだが、戦後はすぐに3輪の乗用車を開発していた。クルマの7ナンバーは現在では5ナンバーがいっぱいになったときに使う予備番号だが、元々は3輪乗用車のものだったことを知る人は今は少ないかもしれない。そのダイハツが1950年代当時に車検がなく、税金も安く、1965年に普通自動車免許に統合されてしまった「軽自動車運転免許」で運転できる軽のオート3輪に目を付け、1957年に発売したのが初代ミゼットDKA型である。初代ミゼットは見ての通りバーハンドルで1人乗り。エンジンは排気量249cc空冷2サイクルの単気筒エンジン。まるで3輪のオートバイ「トライク」に荷台を付けたようなものだった。手軽さを売り物とし、キャッチコピーは「街のヘリコプター」。当時のコマーシャルで大村崑が「乗ってミ〜ゼット!ミゼット!ミゼット!」と連呼していた。
1959年5月には派生形でセルモーターを追加したDK2型や乗車定員を2人に増やしたDKAP型/DK2P型もバイリエーションに追加された。このときボディーもステーションワゴンタイプや郵便車向けの全鋼製ボディー車ミゼットライトバンDSVが登場している。そのうちのステーションワゴンタイプは遊園地のおとぎバスに使われたほか、タイ・バンコクのトゥクトゥクの原型となった。そして、1959年の10月、ミゼットはフルモデルチェンジされ、MP型となった。MP型はノーズ部分と一体化されたキャビンでドアが付き、ハンドルが丸型になったことが旧モデルと大きく異なる。こちらは映画「ALWAYS・三丁目の夕日」(2005年公開・山崎貴監督作品)で堤真一演じる自動車修理工場・鈴木オート社長・鈴木則文の愛車や桑田佳祐初監督映画「稲村ジェーン」で加勢大周演じるヒロシの愛車として登場している。初代、第2代ともミゼットはトヨタ博物館で展示されており、左の写真がDKA型(1959年)、右の写真がMP5型(1963年)である。(所蔵:トヨタ博物館)

※このページの軽トラ、オート三輪は旧車ショー「ノスタルジック2デイズ」に出品されたもの以外はトヨタ博物館かレトロぶーぶ館で実物を見ることが出来る。これらの施設の行き方は下のボタンをクリックして参照してほしい。
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